March 28, 2006

trivial氏に対する反論。

3月27日付の日記「感想文についての雑感」について「あれ?」と思うところが多々あった。

1、一般論としては読書感想文にはロジックはいらない。論証したければしても構わないけれど、ただ「本を読んで自分はこんなふうに感じた」と書くだけでも足りる。

 「読書感想文にはロジックはいらない」という「一般論」を初めて聞いた。読書感想文とは読書の感想を書くもののことだろう。感想が常に理屈を伴わないとは限らない。むしろある程度の年齢に達したら、理屈を伴わない感想を抱くのは稀だろう。それともtrivial氏は小学生が書く読書感想文をイメージしているのだろうか?
 もしこれが僕がこのブログで使っているカテゴリのことをさしているのなら、そんなことは余計なおせっかいである。僕が「読書感想文」という名のもとで理屈っぽい感想を書こうが勝手ではないか。「読書感想文」ではなく、trivial氏のように、「読書」というカテゴリにしておけばよかったのだろうか? カテゴリの名前など僕には瑣末な(trivial)ことに思えるのだが。論理的であろうとすることと瑣末なことにこだわることは同じではないはずだ。
 2については異論はない。
 もし僕の感想について書かれているのならば、僕の表現力が不足していたのだろう。
 3についても同意する。ただすべてのミステリを読んでいる人がいない以上、「読んでいなかった。すまない」と言うことくらいは許されそうだが。それに別の作品のパクリとしてもパクリはパクリだ。ただ僕個人はパクリはそんなに悪いこととは思わない。
 4は当たり前すぎてなぜ敢えて書かれたか分からない。
 5についての定義も寡聞にして聞かないもので、もし常識であるのならば僕が無知だっただけだろう。僕は失敗作は文字通り「失敗した作品」(ハードル云々は関係なく)、駄作は出来の悪い作品の意味と考えていた。辞書にもそうあるので、おそらく間違っていないと思う。


 別に喧嘩するつもりはなかったですけどね・・・。
 ただtrivial氏がフェアプレイを「読者対探偵」と捉えられているらしいこと、それを倒叙ものにも適用されていること、「読者には犯人を指摘し得ない」という表現などについて、「あれ、おかしいな?」と思っただけなのですが・・・。
 今後『扉』や石持氏については自分からは一切発言をしないことにします。

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March 27, 2006

 お久しぶりです。まだ生きています。

 trivial氏の『扉は閉ざされたまま』評~眼鏡は、割っちゃえ!! 踏んづけちゃえ!!~を読む。
 いろいろ考えるところがあったから久々に長文を書く。
 フェアプレイについて。
 ミステリにおけるフェアプレイというものは、読者と作者の間のものだと僕は考えている。探偵と犯人の間のものではない。作者が謎を提示して、読者に解いてもらう。そのときに手がかりや伏線を十分に出しておくことをフェアプレイと呼ぶ。
 だから一般的には、倒叙ものにおいては「フェアプレイ」や「(フェアプレイに対する)アンフェア」という表現は使えない・・・と考えられる。なぜなら読者が解くべき謎がないから。(地の文に嘘がある場合などについてはアンフェアという表現が使える。)
 だがドラマ「古畑任三郎」では「視聴者への挑戦」があった。どういうことか? 「謎がない」倒叙ものにも解くべき謎が実はある。それは「謎がいかに解かれるか」ということだ。古畑が言う「どこで犯人はミスをしたのでしょうか?」とは「いかにして私は謎を解いたのでしょうか?」ということだ。
 言ってみれば、犯人当てミステリでは読者は謎から答えを探そうとするが、倒叙ものミステリでは読者は謎と答えを結ぶ「手がかり」と「ロジック」を探そうとする。すなわち倒叙ものは「手がかり(伏線)とロジックのミステリ」と言ってよいと思う。偏った見方かもしれないが僕はそう認識している。
 しかし最近では、謎がない倒叙ものはかえって珍しい。『容疑者Xの献身』ではアリバイが謎だったし、『扉』では動機が謎だった。一部分だけ謎を残すのはよくある手だ。謎がある場合は、もちろんその謎を読者が解くのに十分な手がかり(伏線)をあらかじめ提示しておくことがフェアプレイだといえる。
 だから、『扉は閉ざされたまま』をアンフェアともし批評するならば、それは二つの観点からなされなければならない。謎が二つあるからだ。まず第一に倒叙ものとしての謎「いかにして碓氷優佳が謎を解くか読者は推理できるか?」、第二に隠された謎「動機を読者は推理できるか?」。
 僕はどちらの謎についても読者は推理できないと思う。後者については常識では考えられないことだし、後者を推理しなければ前者も解けなくなっている。だからアンフェアでないかどうかといえば、アンフェアだと批評できる。ただ「そうできる」というにすぎない。
 ミステリを批評するのにフェアかアンフェアかがそれほど重要だとは僕は考えない。僕がこの作品を批判するのはあくまで形式的なことではなく内面的なことで、理論よりも感情だ。そのことが理論を伴って表れているに過ぎない。

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March 11, 2006

倫理規範について考えるにはニーチェを読むといいと思う。
ニーチェは入門書を読むより、直接読んだほうが理解しやすい。

『国家の品格』という本を書店で拾い読みした。
論理について書かれてある章に、
「ならぬものはならぬのです」
とあった。ルールの根拠を問うてはならない、疑問を抱いてもならない、という意味だろう。著者はこの点を激しく強調していた。僕も賛成する部分はある。だが、こういうルールを作った人がいて(個人とは限らない)、その人が何らかの目的を持ってルールを立てた、ということは意識されるべきことだと思った(ルールには目的があるということ)。その点について言及がないのが物足りなかった。

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March 07, 2006

つまらない人間が生きているのを見ると、死ぬのが惜しくなる。

この世は軽蔑ゲーム。

僕は自殺肯定論者です。ただ、自殺しようとしている人がいたら止めるでしょう。それでも死ぬというのならば好きにさせます。自殺は善悪じゃないのです。その人が強いか弱いか、それだけです。
いままで何度も自殺を考えましたが、いまだに死んでいないのは、自分をマシな人間と思っているせいでしょう。まだ希望はありすぎるほどあります。これらがすべて消えてしまったら死ぬでしょう。いつでも死ねるのだったらすぐに死ぬ必要はない。ひとつでもいいことがあれば、それですべての不幸が報われる。僕はそう思って今までやれてきたし、これからもやれるはずです。そう簡単には死ねません。

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March 04, 2006

最近起きてすぐに電車に乗って零時近くに帰ってきてすぐ寝るという毎日を繰り返しています。なので本当に時間がないです。

僕は必要なときしか喋らない人間なので、ブログでも必要なことしか書かないみたいです。
一番大事なのは中身ではないでしょうか。僕はちなみにブログごときで自足する程度の人間ではないつもりです。こんなものは筆のすさびにすぎません。

つまらないことで自己満足できる人間にはなりたくない。

「死刑執行人もまた死す」「推定無罪」「鬼火」を観ました。どれも良かったです。
「死刑執行人~」はストーリーが巧みな傑作です。さまざまな要素を盛り込み、2時間にギュッと圧縮してあります。広くオススメしたい作品です。
「推定無罪」は途中までつまらなかったのですが、最後に驚かされました。ミスリードがうまいリーガルサスペンスです。
「鬼火」はインポでアル中で精神異常の男の孤独を描いた作品です。僕は性的には健全ですが彼の心境がよくわかります。いやアル中でも精神異常でもないですよ。原作者はフランスの作家でナチスに協力したとかですが、それはともかくこの映画はたいへん気に入りました。

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March 01, 2006

じゃあ「人を殺してもいいんだ」って思っている人がいたとしたらそれを実行させてみればいい。そうすれば極端に利己的な人間でも、殺してはいけなかったんだと気づくだろう。(なぜなら社会的な制裁を受けるから)

模範的な回答を考えてみる。ここでいう模範的とは、教育的、倫理的に上等ということ。
「自分がされていやなことは他人にしてはならない」。
しかしこれだって、すべての人がそう考えているわけではないでしょう。この種のあらゆる曖昧な答えも、すべての人に共有させるわけには行かない。だから最終的にはその個人の倫理的な意識ないし思想一般に任せるしかない。だから趣味の問題に近くなると書いたんですよ。

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February 26, 2006

「なぜ人を殺してはいけないのか?」
内的規約と外的規約に分けて考える。
1、外的規約
もしこの規約がなくなったらいつ殺されるか分からない。殺したければ殺す。むちゃくちゃである。だから社会をうまく機能させるという点および個人の安全という点から、こうした法的なルールは必要だし、道徳として教えられるべきことだと思う。もちろんルールを破った場合は、処罰を受け、その後さまざまな社会的な制裁を受けることになるだろう。
2、内的規約
これを純粋な個人の倫理の問題として考えると、趣味の問題に近くなると思う。たとえばある人が誰かを殺したいほど憎んでいる。だが殺さない。この場合この人が殺さない理由は、「処罰が恐ろしい」や「罪悪感に苛まれるのがいやだ」や「あいつの血で俺の手を汚したくない」や「めんどくさい」などさまざまなものが考えられる。これは個人的なものであって、人によって異なるのではないかと想像される。倫理的にものすごく深い洞察もあれば、上記のように利己的なものもあるだろう。もちろん「人を殺してもいい」と思っている人もいるかもしれないのだ。
内的規約はその人の経歴、経験、生活環境、思想などに大きく影響されると思われる。

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February 25, 2006

昨日バスの中でこう思いました。
けっきょく僕にとって芸術は自分を忘れるためなのだなと。芸術のない生活は僕には耐えられない。なぜなら自分のことに潰されてしまうから。
忙しい生活にどんどん磨耗されて個性を失うことに抵抗するためには、趣味を持つしかないだろう。特に僕のような人間にはそれしか方法がないのですね。
なので、忙しいのですが、なんとか暇を作って趣味に当てます。是が非でも。

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February 22, 2006

スパムって笑いとるために送ってるのか・・・?

時間がない(泣)。

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February 20, 2006

ところでメモを取りながら本格は読まなきゃならんとは誰が言ったのだろう?

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