March 28, 2006
trivial氏に対する反論。
3月27日付の日記「感想文についての雑感」について「あれ?」と思うところが多々あった。
1、一般論としては読書感想文にはロジックはいらない。論証したければしても構わないけれど、ただ「本を読んで自分はこんなふうに感じた」と書くだけでも足りる。
「読書感想文にはロジックはいらない」という「一般論」を初めて聞いた。読書感想文とは読書の感想を書くもののことだろう。感想が常に理屈を伴わないとは限らない。むしろある程度の年齢に達したら、理屈を伴わない感想を抱くのは稀だろう。それともtrivial氏は小学生が書く読書感想文をイメージしているのだろうか?
もしこれが僕がこのブログで使っているカテゴリのことをさしているのなら、そんなことは余計なおせっかいである。僕が「読書感想文」という名のもとで理屈っぽい感想を書こうが勝手ではないか。「読書感想文」ではなく、trivial氏のように、「読書」というカテゴリにしておけばよかったのだろうか? カテゴリの名前など僕には瑣末な(trivial)ことに思えるのだが。論理的であろうとすることと瑣末なことにこだわることは同じではないはずだ。
2については異論はない。
もし僕の感想について書かれているのならば、僕の表現力が不足していたのだろう。
3についても同意する。ただすべてのミステリを読んでいる人がいない以上、「読んでいなかった。すまない」と言うことくらいは許されそうだが。それに別の作品のパクリとしてもパクリはパクリだ。ただ僕個人はパクリはそんなに悪いこととは思わない。
4は当たり前すぎてなぜ敢えて書かれたか分からない。
5についての定義も寡聞にして聞かないもので、もし常識であるのならば僕が無知だっただけだろう。僕は失敗作は文字通り「失敗した作品」(ハードル云々は関係なく)、駄作は出来の悪い作品の意味と考えていた。辞書にもそうあるので、おそらく間違っていないと思う。
別に喧嘩するつもりはなかったですけどね・・・。
ただtrivial氏がフェアプレイを「読者対探偵」と捉えられているらしいこと、それを倒叙ものにも適用されていること、「読者には犯人を指摘し得ない」という表現などについて、「あれ、おかしいな?」と思っただけなのですが・・・。
今後『扉』や石持氏については自分からは一切発言をしないことにします。
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March 27, 2006
お久しぶりです。まだ生きています。
trivial氏の『扉は閉ざされたまま』評~眼鏡は、割っちゃえ!! 踏んづけちゃえ!!~を読む。
いろいろ考えるところがあったから久々に長文を書く。
フェアプレイについて。
ミステリにおけるフェアプレイというものは、読者と作者の間のものだと僕は考えている。探偵と犯人の間のものではない。作者が謎を提示して、読者に解いてもらう。そのときに手がかりや伏線を十分に出しておくことをフェアプレイと呼ぶ。
だから一般的には、倒叙ものにおいては「フェアプレイ」や「(フェアプレイに対する)アンフェア」という表現は使えない・・・と考えられる。なぜなら読者が解くべき謎がないから。(地の文に嘘がある場合などについてはアンフェアという表現が使える。)
だがドラマ「古畑任三郎」では「視聴者への挑戦」があった。どういうことか? 「謎がない」倒叙ものにも解くべき謎が実はある。それは「謎がいかに解かれるか」ということだ。古畑が言う「どこで犯人はミスをしたのでしょうか?」とは「いかにして私は謎を解いたのでしょうか?」ということだ。
言ってみれば、犯人当てミステリでは読者は謎から答えを探そうとするが、倒叙ものミステリでは読者は謎と答えを結ぶ「手がかり」と「ロジック」を探そうとする。すなわち倒叙ものは「手がかり(伏線)とロジックのミステリ」と言ってよいと思う。偏った見方かもしれないが僕はそう認識している。
しかし最近では、謎がない倒叙ものはかえって珍しい。『容疑者Xの献身』ではアリバイが謎だったし、『扉』では動機が謎だった。一部分だけ謎を残すのはよくある手だ。謎がある場合は、もちろんその謎を読者が解くのに十分な手がかり(伏線)をあらかじめ提示しておくことがフェアプレイだといえる。
だから、『扉は閉ざされたまま』をアンフェアともし批評するならば、それは二つの観点からなされなければならない。謎が二つあるからだ。まず第一に倒叙ものとしての謎「いかにして碓氷優佳が謎を解くか読者は推理できるか?」、第二に隠された謎「動機を読者は推理できるか?」。
僕はどちらの謎についても読者は推理できないと思う。後者については常識では考えられないことだし、後者を推理しなければ前者も解けなくなっている。だからアンフェアでないかどうかといえば、アンフェアだと批評できる。ただ「そうできる」というにすぎない。
ミステリを批評するのにフェアかアンフェアかがそれほど重要だとは僕は考えない。僕がこの作品を批判するのはあくまで形式的なことではなく内面的なことで、理論よりも感情だ。そのことが理論を伴って表れているに過ぎない。
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March 11, 2006
倫理規範について考えるにはニーチェを読むといいと思う。
ニーチェは入門書を読むより、直接読んだほうが理解しやすい。
『国家の品格』という本を書店で拾い読みした。
論理について書かれてある章に、
「ならぬものはならぬのです」
とあった。ルールの根拠を問うてはならない、疑問を抱いてもならない、という意味だろう。著者はこの点を激しく強調していた。僕も賛成する部分はある。だが、こういうルールを作った人がいて(個人とは限らない)、その人が何らかの目的を持ってルールを立てた、ということは意識されるべきことだと思った(ルールには目的があるということ)。その点について言及がないのが物足りなかった。
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March 07, 2006
つまらない人間が生きているのを見ると、死ぬのが惜しくなる。
この世は軽蔑ゲーム。
僕は自殺肯定論者です。ただ、自殺しようとしている人がいたら止めるでしょう。それでも死ぬというのならば好きにさせます。自殺は善悪じゃないのです。その人が強いか弱いか、それだけです。
いままで何度も自殺を考えましたが、いまだに死んでいないのは、自分をマシな人間と思っているせいでしょう。まだ希望はありすぎるほどあります。これらがすべて消えてしまったら死ぬでしょう。いつでも死ねるのだったらすぐに死ぬ必要はない。ひとつでもいいことがあれば、それですべての不幸が報われる。僕はそう思って今までやれてきたし、これからもやれるはずです。そう簡単には死ねません。
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March 04, 2006
最近起きてすぐに電車に乗って零時近くに帰ってきてすぐ寝るという毎日を繰り返しています。なので本当に時間がないです。
僕は必要なときしか喋らない人間なので、ブログでも必要なことしか書かないみたいです。
一番大事なのは中身ではないでしょうか。僕はちなみにブログごときで自足する程度の人間ではないつもりです。こんなものは筆のすさびにすぎません。
つまらないことで自己満足できる人間にはなりたくない。
「死刑執行人もまた死す」「推定無罪」「鬼火」を観ました。どれも良かったです。
「死刑執行人~」はストーリーが巧みな傑作です。さまざまな要素を盛り込み、2時間にギュッと圧縮してあります。広くオススメしたい作品です。
「推定無罪」は途中までつまらなかったのですが、最後に驚かされました。ミスリードがうまいリーガルサスペンスです。
「鬼火」はインポでアル中で精神異常の男の孤独を描いた作品です。僕は性的には健全ですが彼の心境がよくわかります。いやアル中でも精神異常でもないですよ。原作者はフランスの作家でナチスに協力したとかですが、それはともかくこの映画はたいへん気に入りました。
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March 01, 2006
じゃあ「人を殺してもいいんだ」って思っている人がいたとしたらそれを実行させてみればいい。そうすれば極端に利己的な人間でも、殺してはいけなかったんだと気づくだろう。(なぜなら社会的な制裁を受けるから)
模範的な回答を考えてみる。ここでいう模範的とは、教育的、倫理的に上等ということ。
「自分がされていやなことは他人にしてはならない」。
しかしこれだって、すべての人がそう考えているわけではないでしょう。この種のあらゆる曖昧な答えも、すべての人に共有させるわけには行かない。だから最終的にはその個人の倫理的な意識ないし思想一般に任せるしかない。だから趣味の問題に近くなると書いたんですよ。
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February 26, 2006
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
内的規約と外的規約に分けて考える。
1、外的規約
もしこの規約がなくなったらいつ殺されるか分からない。殺したければ殺す。むちゃくちゃである。だから社会をうまく機能させるという点および個人の安全という点から、こうした法的なルールは必要だし、道徳として教えられるべきことだと思う。もちろんルールを破った場合は、処罰を受け、その後さまざまな社会的な制裁を受けることになるだろう。
2、内的規約
これを純粋な個人の倫理の問題として考えると、趣味の問題に近くなると思う。たとえばある人が誰かを殺したいほど憎んでいる。だが殺さない。この場合この人が殺さない理由は、「処罰が恐ろしい」や「罪悪感に苛まれるのがいやだ」や「あいつの血で俺の手を汚したくない」や「めんどくさい」などさまざまなものが考えられる。これは個人的なものであって、人によって異なるのではないかと想像される。倫理的にものすごく深い洞察もあれば、上記のように利己的なものもあるだろう。もちろん「人を殺してもいい」と思っている人もいるかもしれないのだ。
内的規約はその人の経歴、経験、生活環境、思想などに大きく影響されると思われる。
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February 25, 2006
昨日バスの中でこう思いました。
けっきょく僕にとって芸術は自分を忘れるためなのだなと。芸術のない生活は僕には耐えられない。なぜなら自分のことに潰されてしまうから。
忙しい生活にどんどん磨耗されて個性を失うことに抵抗するためには、趣味を持つしかないだろう。特に僕のような人間にはそれしか方法がないのですね。
なので、忙しいのですが、なんとか暇を作って趣味に当てます。是が非でも。
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February 22, 2006
スパムって笑いとるために送ってるのか・・・?
時間がない(泣)。
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February 20, 2006
ところでメモを取りながら本格は読まなきゃならんとは誰が言ったのだろう?
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February 19, 2006
忙しくて何もする時間がない。腐るほど余暇がある人がうらやましい(←数ヶ月前の自分)。
本も読めてないし、映画も観てません。書かなけりゃならないミステリが、2つほどあるんだが、どっちかさぼってしまうかも。ネタはあるが。
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February 14, 2006
うちの近くのレンタル店でバレンタインデーセールをやるとか。
100円でレンタルできておまけにミニチョコがついてくる。
やったぁぁぁぁぁぁ。チョコがもらえる(号泣)。
うわ。僕天才かも。
バレンタインデーに『チャーリーとチョコレート工場』を観る。
チョコ食べながら。
今日は↑で余暇を過ごします。
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February 07, 2006
忙しくて更新できなくてゴメンナサイ。とりあえず溜まっている映画の感想を書かないとな。
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February 04, 2006
January 31, 2006
映画館に何年くらい行っていないだろう? 本当に久々に行ってみたくなってきた。
気になっている新作映画は、「親切なクムジャさん」「ホテル・ルワンダ」「タブロイド」あたり。
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January 30, 2006
フリッツ・ラング・コレクションなるものが出るそうな。
名のみ聞く「条理ある疑いの彼方に」を観たい。欲しいにゃー。無理かにゃー。
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January 28, 2006
トンミスとは「とんでもないミステリ」のこと。
普通のミステリに飽きてきた人が、真に新しい興奮を覚えられるミステリ。それがトンミスだ。
良いミステリは「なるほど」と思わせてくれる。しかしトンミスは「何じゃこりゃ」なのだ。バカミスは笑える。しかしトンミスは真面目に変なのだ。
お行儀の良いミステリの時代は終わった。これからはトンミスの時代だ! みんなトンミスを書こう!
トンミスをググッてみると119件しかヒットしなかった・・・。
というかトンミスと呼ばれる作品をまったく読んでいない。←宣言する資格ゼロじゃん!
とりあえず『蝶たちの迷宮』を探してみるか。
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某氏の日記に非モテのことがかいてあり、腹が立つ。
他人のことをどうこう言うのはゲスの勘ぐりになるので、主語を「私」にしましょうや。
モテることがそんなに大事なことかなあ。
こういうのは欲望によると思う。
欲望が大きく、モテないのなら不幸。欲望が大きく、モテるなら幸福。欲望が小さく、モテないなら幸福。欲望が小さく、モテるなら不幸。
で僕は欲望が小さく、モテるから不幸なのですよ。(うそうそ)
新たに観た映画。「ノスタルジア」「パラサイト」「ライフ・イズ・ビューティフル」「列車に乗った男」。
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January 23, 2006
最近、ときたまものすごい眩暈に襲われる。何かの病気かな……?
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January 21, 2006
だる~。
「親切なクムジャさん」を観にいきたいが金がない。
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January 20, 2006
映画の感想がたまりまくってる……。
新たに観た映画。「穴」「ミツバチのささやき」「ガタカ」「髪結いの亭主」「JSA」。
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January 17, 2006
参考。
もうこの際、「本格」とは何かを徹底的に究明すべきだろう。評論家諸氏!
で大事なのは、「本格」を固定的なものとして捉えないこと、すなわち「本格」を史的観点から眺めることだと思う。海外において「本格」はどのように捉えられているか。日本では、甲賀三郎から始まって、どのように作家および読者の本格観が揺れ動いてきたのか。
僕が思うにそのようにして源流に遡ることは保守的になることではない。むしろ幻がいかに立ち現れ、どのように形を変えてきたかを発見することだ。
ニーチェ的なやり方ですが、誰か力のある人はやってみませんか。(っていうか誰も見てないだろ)
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January 15, 2006
今日はとても孤独を感じた日だった。疲れた。
幻のように曖昧になった幽明の境を、いつの間にか越えていたらいいのに、と思った。
自殺するのにも勇気が要り、行動力が要る。
これが多くの人を自殺させない最大の理由だろう。
最近フレームを考えるようになった。こことこことここをフレームに収めれば良い画が撮れるなと。
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January 13, 2006
ってことで、『スクリーム2』を借りてきましたょ。
頭の中でミステリを作っている。
メイントリック周辺はほぼ出来上がっている。しかしなんかパッとしない。
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January 08, 2006
January 07, 2006
今『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(ルイス・ブニュエル監督)を観ていたのだが、退屈で退屈で死にそうになった(誇張なし)。「映画って本質的につまらないものなんじゃ……」という疑いさえ芽生えた。あと40分間苦痛を耐えきる自信がない。
観た映画。「機動警察パトレイバー」「CURE」「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」。
感想はあとで。
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がHPの日記で面白いことを言っている。
「本格」などというあいまいなものが、人によって定義が違うのは当然だと思いますが。二階堂氏は定義を統一したいと思っていらっしゃるらしいが、実際問題そんなことは不可能でしょう。いったいどうやって、そんなことを実現できますか。
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January 04, 2006
新年明けましておめでとうございます(遅っ)。
今年もよろしくお願いします。
今年の(ジュナ丸としての)抱負は、
1、小説をうまく書けるようになる。
2、少なくとも2作くらいは書き上げて、UPする。
この2つを目標にがんばります。
もちろん書くのはミステリです。普通小説なんて書ける気がしませんから。
あと良い映画をたくさん観たいですね。これは抱負というより希望ですが。
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December 27, 2005
をあげてみる。間違って違うものを買ったり借りたりしないよう注意してください。
「ゴシカ」
「ガタカ」
「海の上のピアニスト」
「戦場のピアニスト」
「オープン・ユア・アイズ」
「アイズ・ワイド・シャット」
「アンブレイカブル」
「アンタッチャブル」
「REM(レム)」
「-less(レス)」
「es(エス)」
「オールド・ボーイ」
「ゴールデンボーイ」
「CUBE」の続編全部
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
「ダンサー」
「嘆きの天使」
「嘆きのテレーズ」
「駅馬車」
「幌馬車」
「8人の女たち」
「81/2の女たち」
「隣のヒットマン」
「隣のヒットマンズ」
「8Mile」
「8mm」
「“アイデンティティー”」
「アイデン&ティティー」
見つけたら追加していきます。
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December 22, 2005
『惑星ソラリス』(タルコフスキー監督)を観た。ちゃんとした感想は後で書きますが、少しだけ思ったことを。
ややネタバレが含まれます。ミステリではないので伏字にしませんが。
最後クリスはソラリスに残ることに決めた。これは、居心地が良いからですね。ハリーや親父さんが、本物でないとしても、自分にとってそちらのほうが都合が良いから、残ることにしたんだと思います。要するにクリスも自分の周囲の人間しか愛せない。それは当然だと思います。人類全般を愛せる人間なんていない。人間が愛せるのは、自分のごく身近な人たちだけです。自分を愛してくれる人だけを愛せる。クリスが残ったのは、彼がもっと甘えたいからです。甘えの対象がニセモノだとしても、自己欺瞞に絶えず気づかされざるを得ないとしても、都合が良いから甘えてしまう(ソラリスの海が生む生物は、異常なほど「産みの親」である人を愛してくれます)。クリスはそういう自分の心理的メカニズムを熟知しながら、それを恥としながら、なお残らざるを得なかったのだと思います。ギバリャンはそれを恥として自殺したのだと思います。
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December 20, 2005
最近googleから人がガンガン来るので、ややビビり気味のジュナ丸です、こんばんは。
ある特定の検索ワードでググッてみると、検索結果の上位に表示されていたり……。
「殺人ヒーター」で人がたくさん来るのは、やはりアレのせいでしょうか。CMでやってる。
うちは基本的に「ヘタレ系雑文サイト」なので、検索して来られる方は、失望されるかもしれませんね。
観た映画。「タクシードライバー」「甘い生活」「迷探偵シャーロック・ホームズ/最後の冒険」。でいま「惑星ソラリス」を観ています。感想はまた後で。
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December 18, 2005
ねらーどもが去るまで更新停止してました。そろそろ再開します。
バカな「秀才」といえばりんろう(http://www.rinro.com/)。僕はこの人のサイトを見ると、吐き気を催す。「いつも他人を攻撃せずにはすまない」のは自分だろう?と。
「的」が多いな……。
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December 14, 2005
また誰かが2chの石持浅海スレに晒しやがった。
勝手に晒してんじゃねえよボケ>g210002201108.d004.icnet.ne.jp。
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December 13, 2005
僕が伏線より手がかりを好きなのは、一般的に伏線は「どちらにも解釈できる」ものが多いから。Aという解釈と思わせて、実はBという解釈が正しかった。同一の文章や出来事に二つの意味を持たせるのが、一般的な「伏線」と思われます。しかし、AとBどちらが正しいかは作者の答えを待たなければならない。作者が「Bが正しい」といえばBが正しく、「Aが正しい」といえばAが正しい。
ところが手がかりは、「正しく推理すれば」どう解釈すればよいか読者が判断できる。作者の答えを待たずに、正解できる。だから、僕は伏線より手がかりのほうが好きだ。
ただ手がかりと伏線は厳密には区別できませんね。
僕があえて「手がかり」などという忘れられた言葉を使うのは、推理が好きだからです。
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December 11, 2005
またもや風邪。だるい。死ぬ。
パソコンがぶっ壊れたのでリカバリした。データが消えて悲しい。
生きていく自信がない。
「このミス」と「本ミス」を書店で立ち読み。
観てまだ感想を書いていない映画の備忘録。「勝手にしやがれ」「カッコーの巣の上で」「ボウリング・フォー・コロンバイン」。
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December 10, 2005
最近「コロンボ」を観ていない。いまは映画にハマリ中で、なるべくミステリっぽいのに近づかないようにしている。
しかし旧シリーズはなるべくはやく全部観てしまうつもりだ。あと観ていないのは、「死者の身代金」「野望の果て」「第三の終幕」「白鳥の歌」「忘れられたスター」「仮面の男」「秒読みの殺人」の7つ。旧シリーズは全部で45話だから38話観ていることになる。
その38話中のマイベストをランキング形式で発表してみる。ミニコメつき。
1位、「二つの顔」
倒叙ものでフーダニットを可能にし、なおかつ一種の密室トリック、映像による叙述トリックを盛り込んだ傑作中の傑作。
2位、「ビデオテープの証言」
決め手のおもしろさなら、これが一番。惚れ惚れするくらいのロジックの切れ。
3位、「権力の墓穴」
決め手だけが倒叙の面白さではない。途中の推理を楽しめてこそ通なのだ! 犯人とコロンボのロジックの応酬を堪能したいのなら、これ。
本格好きなら、この3つはオススメです。レンタルなどで観られてみてはいかがでしょうか。
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December 09, 2005
二階堂黎人氏の掲示板を興味があるから読んでる。
我孫子武丸氏も登場し、ますますおもしろい……ゴホゴホッ……失礼、ますます興味深い議論になってきた。
我孫子氏もかなり変なことを言っていると思う。
氏は形式と質を区別せよとおっしゃるが、両者はそんなに簡単に区別できるものではない。二階堂氏がフィーリングで本格といっている部分を「質」と呼んでいるということかな。それならいいのだけれど、もしフェアプレイのことをおっしゃっているのなら、フェアプレイは形式的なものだと言えると思います。
「本格としてアンフェア」という言い方ならオーケーらしいのだが、二階堂氏は本格であるための条件としてフェアプレイを挙げているわけでしょう? なぜ「「フェアじゃないから本格ではない」と言ってはいけない」と我孫子氏が決める権限があるのかわからない。
我孫子氏の「本格観」も二階堂氏の「本格観」も相対的なものなら、どちらに対しても定義を押し付けることはできないはずです。我孫子氏が掲示板に書いていることは、まさに押し付けのように思われます。(定義を押し付けてはならないと自ら言いつつも、無意識に押し付けているのです。)
この論争ではっきり分かった、興味深いことがひとつだけある。
それはフェアプレイについてのミステリファンの認識の違いだ。あるミステリファンは本格であるための条件としてフェアプレイを挙げ、それを満たさないものは本格と認めない。別のミステリファンは、フェアプレイを満たさないものも本格と呼ぶ。
この認識の違いが今回の論争を生んだのだと思う。
二階堂氏の意図的な挑発が根本的な原因なのは間違いないけれど、氏に必死に抗弁する人も、逆のベクトルで似たようなことをやったとしか思えない(もちろんなかには公平な人もいたようだが)。
ミステリ批評の貧しさはどうにかならないものか。
ロジック、プロット、トリック……。Aという作品の批評を読む。次にBという作品の批評を読むと、ほとんど同じことが書いてある。似たような言葉で、似たようなことが書いてあるだけ。
批評の貧しさは、その対象の貧しさをいくらかでも表していると僕は思う。その逆も真。批評の豊かさは、その対象の豊かさを表す。
僕の本格観を披瀝する。
魅力的な謎、魅力的な解決。
ロジックの面白さ。
トリックの面白さ。
プロットのひねり。
などなどかな。これらがどれかひとつでもすごければ「本格」。「オレ本格」。
主観で何が悪いんだよって感じですね。
しかし贅沢を言えば、「フェアプレイ」くらいは欲しい。伏線とかどうでもいいから、手がかりをちゃんと置け、と。
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December 07, 2005
とりあえず「本格」を語るならクイーンくらい読んどけって話だね。
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December 06, 2005
僕はいつも劣勢なほうに味方したくなるね。袋叩きは趣味じゃない。
『容疑者Xの献身』を読みたくなってきたよ!
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December 05, 2005
ミステリへの愛が薄くなっていくのを感じる今日この頃。
氷川透氏のHPの雑文にある麻耶『神様ゲーム』の解釈は面白い。
(ところでこういう破綻したミステリが「本格」として高く評価されるから僕はミステリファンを信用しないのだ。)
「神様が正しいとすると、論理が破綻してしまう。だから、論理のほうが正しく、神様は間違っている」ということだと思う。神様と論理を秤にかけて、論理のほうをとる姿勢がミステリ作家として素晴らしい。
僕はただ単に麻耶氏の計算違いだったと思う。
まあこれにしたって、「神様=作者」の間違いと言える。そこまで麻耶氏が考慮に入れていたのなら(つまりわざと「作者」が間違ったのだとしたら)、僕は麻耶氏を天才だと呼ぼう。『神様ゲーム』を天才による天才的な実験作だと。
もちろん本人はそこまで考えていないだろうけどね。
どうも僕は他人からバカと思われているせいで、僕の書く文章を理解してもらっていない気がする。バカはバカですがごくたまに意味のあることも書きますです。
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November 30, 2005
「うつし世は夢」
2005年にデビューしたある新人の作品を読んだときも、推理の可能性がある特定の登場人物だけに向けられている印象が強く、作者が嬉々としてその道を進み、読者が渋々とその後を着いていく構図になっているために、ずいぶんと窮屈な思いがしたものでした。
これは作品によっては面白いミスディレクションになりそうだ。この前観た映画「仕立て屋の恋」はこういう手法を使ったいい例だと思う。(杉江氏はミスディレクションという言葉を使っていらっしゃらないが、「容疑を振りまく」ことに関する議論を敷衍していくと、ミスディレクションに到達すると思う。)
作品名を挙がっていないのでどの作品か分からない。実際に読んでみると、こういう批判がもっともなものかどうか分かるのだけれど。
というかなぜ作品名を挙げていらっしゃらないのかな。挙げられないのだったらそもそもこういうことを書くべきでないと思う。
それに、作者が嬉々としているか、読者が自分と同じように渋々とするか、どうして分かるのだろうか? 超能力者でもないかぎり、こんなことは分からないと思うのだが。
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November 29, 2005
「活字人間の映像仕事」
「伏線がさりげなくない(別のことを指示しているように見える伏線がラスト近くで二重の意味を持ってくるようなものだと、すんなり通る)」
さりげない伏線は別にいいんじゃないかと思われるが……。
映像作品の場合は、再見して確認しにくいからだろうか。
「トリックのためのトリックに見える(一般の視聴者から見ると、なんでそんな無理なことをわざわざするの、と思われてしまう)」
同意。どれほど面白いトリックでも不自然であってはならないと思う。事件は裏側から見て、筋が通ったものでなければならない。
「容疑が振りまけない(推理の筋道が一本しかない)」
「推理の筋道が一本しかない」ことは問題ではない。優れた本格ミステリは、推理の筋道が一本でなければならない。(より適切に言うと、少なくとも一本は正しい推理の筋道がなければならない。)問題は、その筋道をいかに巧妙に隠すかということにある。
だからこれは言葉の使い方が不注意なのではないかと思われる(失礼)。たぶん「ミスディレクション」や「レッドへリング」のことを言ってあるのだろう。
「専門的すぎる知識が使われている」
犯人当てなら、専門的すぎる知識はあらかじめ分かりやすく説明しておかなければならない、とよく言われる。だがそこまでこだわる必要はないと僕は思う。要は、分かりやすく説明できるかどうかでしょう。
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November 28, 2005
電車の中でとても悲しくなり終点まで乗って行って死のうと思った。が降りるべき駅で降りた。涙をこらえて帰宅した。
僕はこうやって想像で何度も死んでいるのだ。僕は過去のどの時点で死んでもおかしくなかったし、未来のどの時点で死んでもおかしくない。ただ僕にできるのは、苦しみを、忘れることだけ!
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November 25, 2005
凡庸になるくらいなら死んだほうがマシ。
『フレイルティー妄執』と『仕立て屋の恋』を観た。8点と10点。あとで感想を書く。眠いので寝る。
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November 23, 2005
見せ場を作れないことが問題なんだよ。
芸術家はあざとくなくちゃいけない。三流ばっかりに接しているからそんなことを言う。
2ちゃんねらーどもは彼ら自身が最大の見世物であることを分かっているんだろうか。
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November 22, 2005
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2005/11/post_92.html
僕はよくネタバレ伏字を使うので反論する。
未読者の大半は知りたいから、当然読むだろう。
ここは決め付けすぎだと思う。少なくとも僕は未読のミステリのネタバレを読まないが。
僕はネタバレ書評は良いと思っている人間の一人で、それは何故かというと、ミステリ以外のものの書評はほとんどネタバレ書評といっていいと思っているからだ。ミステリだけが、ネタバレを禁じられている。そりゃそうである。ミステリはネタを隠してなんぼだから。
しかし本来評論というものは、ネタについて話さなきゃダメだと思うのである。ネタに触れなければ語れないことがある。そこを語ってこそ本当に豊かなミステリ評論ができるはずだ。
(僕はネタについて語って作者から感謝された(たぶん)こともある。)
一方、安易にネタバレを振りまくようなことは、ミステリファンとしてのマナーに違反していると思う。
だから、伏字や「続きを読む」などの方法は非常に賢明な手段だと僕は思うのだ。
それを読んで未読の人がネタを知ったとしても、警告されたのにネタバレを読んだきみの責任でしょと思う。
上の記事に書かれていた森氏の意見については、こうした手段を敵視してまで、自著を多く売りたいのかなあ、と思ってしまった。
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なぜなら闇は美しい他の者や醜い自分を見えなくするから。
人間は光を好む。なぜならもっと知りたいと願うから。
ものは言いよう。
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November 19, 2005
はてなブックマークのコメント機能はいらない。コメントしたいならそのブログにコメントすればいいわけだし。独り言なら自分のブログでね。(そもそもはてなブックマークっていらないんじゃ……)
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November 17, 2005
だるい。
jituzonさんどうしたんやろ……。
「ジャンル横断」と言っている時点ですでにジャンルに囚われているのだが。
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November 16, 2005
は面白い。
哲学のいいところはいい加減なところだと思うな。
「不完全性定理」はミステリ界の中では、数学とは違った独自の意味を持った一種の専門用語として使われているわけで、その辺のことを論ずるには、ミステリを読んでおかなくちゃいけないと思う。少なくともクイーンくらいは。
出会い系サイトの勧誘も凝ったことをするなあ。
疑わしいので、トラックバックは削除させてもらいました。僕の誤解だったら許してくださいね★。
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November 13, 2005
最近、人の意見を批判することが多かった。反省する。
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November 11, 2005
「通人」というものは他人が作り上げるものじゃないかなあ。本人はただ偏屈なだけということもありうる。
趣味については好き勝手やってよいと思う。自分が読みたいものを読む。観たいものを観る。
ことに僕は趣味については人と同調するということを知らない。人の意見を参考にはするけれど。
「死にたい、死にたい」と言うことで本当に死ぬことを踏みとどまっている人間に、「死ねばいい」なんて言ったら背中を押すことになるぞ。
俺は「死ねばいい」とか絶対言わねえ。赤の他人に対してもね。
ネットでは同一人物妄想をしがちですよね。僕はネットでも引きこもりなので、誰とも別人ですよ。2chに書き込んだことも、作品を出版したことももちろんありません。
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November 10, 2005
僕は自殺した人間を軽蔑することはできない。彼らの苦悩がどれほどのものであったか、安易に想像してはならないから。
だが自殺という行為は、軽蔑すべきものだ。
「誤植と自殺」
揚げ足とりめくのはイヤだけど、思ったことを書いておく。
「死んだときの私」という想像的な消失点から現在を回顧的に見る力が、ほかならぬこの現実にリアリティを与えている。
それは私が「推理小説」を読んでいるときと同じメカニズムである。
ここで唐突に「推理小説」が出てくるのがクサイなとまず思った。なぜ「小説」ではないのか。ミステリ読みとしてはこの辺にトリックが潜んでいそうだと思うのである。レトリックのトリックが。
僕の意見としては、なにも終わりから見る必要はないと思うのだ。始まりからずっと物語は続いているのであり、なにも死を見なくても、一日先、一ヶ月先、一年先を想像しているほうが、よっぽどリアリティがある現実を送れるのではないか。それとも最も実際的な人ほど、「自分の死」まで想像しているものだろうか。むしろそういう人は夢見心地であると思う。
物語の中ではすべての出来事の意味は文脈依存的であるから、物語が読み終えられて書物を置くまでは、その出来事の意味は未決のままである。
これは後半がよくわからない。物語が終わったとしても、出来事の意味が文脈依存的であるのは変わらない気がする。もし終わったことによって意味をとろうとするのなら、それもひとつの文脈によって理解していることになる、いわば額縁によって。しかし額縁はある部分を切り取っただけだから、本当はいろんな文脈で読みうるのだ。
だから、
日々我が身に起きている出来事の「ほんとうの意味」は「私という物語」を読み終えるまでは私は知ることができない。
のは間違いであり、死んだあとで意味をとることが可能だとしても、それは文脈に依存する。正しい意味などない。
僕らは死まで想像しなくても、日々の出来事にいろんな意味を探している。それは断片的な物語だとしても、充分にリアルだ。そして感動的だ。窓ガラスを見ていたという女性だって、告白する男性だって、まさか自分の死を想像していたわけではないだろう。
「死んだ私」という想像的な消失点は想像力の強い人間ほど「遠く」に設定することができる。
これは根拠を示して欲しいと感じた。
続く
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November 08, 2005
jituzonさんが「ヲチスレ」を乗っ取ったみたいだ。素晴らしいな、彼女は。
急に話題が暗くなりますが、もうそろそろこの世とお別れします。更新が止まったら死んだと思ってください。別の理由でやめる場合はその旨を書きますので。何かこう、楽に死ねる方法があったら教えてください。痛いのはだめなんですよねえ。
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November 07, 2005
偏った見方だと思った。
「素直に楽しめ」とは僕にとって「馬鹿になれ」と言われていることと一緒のように思う。僕ができるのは、面白いと感じるものを面白いと感じること、つまらないと感じるものをつまらないと感じることだけだ。「素直」であれば、「楽しめ」ないこともあるのだ。
「欠点を探すほうが簡単」? んなわけあるかい。欠点を取り上げ、それを真摯に論じることは、利点を取り上げてそうするのと同等に難しいことだ。
そもそもクリエイターになろうとする人間に、愛がないわけがない。小説家になろうとする人間は、小説に対する愛がある。絵描きには絵に対する愛が。それをいまさら「楽しめ」とは。
「過去に経験した面白さを、分析して、自分の作品に生かす」と仰る。しかしそんなことを意識してやっているようではコピーにしかならないのでは? 僕はもっと作品の創造性を信じたいし、クリエイターの感性を信じたい。
「面白い作品ほど突っ込みどころ満載」「面白い本格ミステリほど穴だらけ」などという言葉もあるが、本当にそうですか?
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November 04, 2005
僕なんか一生結婚できないだろうなあ……。
ブログペットのネズミが意外とかわいいことに気づく。ネズミにすればよかった。
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November 02, 2005
風邪ひいた。
観た映画の感想。手短に。
「ユージュアルサスペクツ」……やや捻りが足りないなあ。途中で分かっちゃったよ。
「名探偵登場」……ミステリとしてはダメダメ。笑える部分はあったが、あまり好きではないなあ。ピーター・フォークとトルーマン・カポーティーが出ています。
本の感想。
依衣貴裕『歳時記』……仕掛けは非常に面白いのだけれど、トリックやロジックのために不自然な部分ができているように思った。たとえば、第一の事件では、なぜ犯人は使いにくいマジックの小道具のロープで絞殺したか、ということが問題になる。これはロジックのために必要な謎なのだけれど、絵解きのあとでも犯人の行動が不自然なことに変わりはない。あえて絞殺にする必要はないからだ。そんな感じです。
法月綸太郎編『本格ミステリ・アンソロジー』……どれも面白かった。特に良かったのは、「動機」と「ひとりじゃ死ねない」。「死とコンパス」は言うまでもなく。
ミステリには二重性が顕著で、そのひとつに、舞台裏と観客側がある。観客側で整合性が取れているのはもちろん重要だが、舞台裏にも論理的一貫性、犯罪の自然さ、人間心理の合理性がなければならないと思う。
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November 01, 2005
つまらない話題なので、あまり引っ張るつもりはないのですが。
僕はこれまでいくつか作品を書いたが、いちどだって満足したことがない。欠点ばかりが目に付き、「自信がない」ということになる。
だがまったく無価値とは思わない。ある意味、僕の作品は面白いと思う。
他人のためだけに書く人間はいない。僕は書いて金を貰っているわけではないから、書くのはもっぱら芸術上の目的のためだ。
僕の夢は「完璧な本格ミステリ」を書くこと。それは人の批判を聞かないということではない。批判は歓迎する。
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October 29, 2005
jituzonさんいじめはもうやめろよ!
そっとしていたら落ち着いてくれるって。
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October 22, 2005
をやってみた。こちら。
以下は結果。
あなたのポイントは -20ポイントです。 (男脳度数:60%/女脳度数:40%)
ポイントは、-100~100ポイントで計算され、マイナスが大きいほど、男性脳で、それに対し、プラスが大きいほど、女性脳となります。
中性的男性脳 あなたは、標準的な男性脳の持ち主ですが、同時に女性的な面も、いくらか持ち合わせています。どちらかというと何かに挑戦するのが好きで、空間能力や論理的な考え方を使う分野で力を発揮できます。比較的に人との対話を重視し、仕事面ではチームの取りまとめをすることに適しています、努力次第で、女性的な考え方や感情なども得られます。
バランスが取れていますね。
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October 19, 2005
をやってみた。
* コミケット ×
* 同人誌即売会(コミケット以外) ×
* サークル参加 ×
* 晴海 ×
* 有明 ×
* 幕張 ×
* 東京流通センター ×
* インテックス大阪 ×
* 18禁アニメ ×
* 18禁ゲーム ×
* 18禁漫画 ×
* BL ×
* アニメ映画 ×
* アニメDVD/ビデオ ×
* DVDボックス ×
* フィギュア ×
* ガンプラ ×
* トレーディングカード ×
* コスプレ ×
* アニメ系Tシャツ着用 ×
* アニメのポスターを貼る ×
* 等身大抱き枕 ×
* 漫画のせりふを口走る ×
* サイン会 ×
* 握手会 ×
* 漫画を書店で予約 ×
* 限定版を購入 ×
* 漫画を表紙買い ×
* 漫画を作者買い ×
* 漫画を描く ×
* 小説を書く ○
* 同人誌製作 ×
* 映画を製作 ×
* 漫研に所属 ×
* ゲームを作る ○
* ゲームで徹夜 ○
* ドラゴンクエスト ○
* ファイナルファンタジー ○
* ネットゲーム ×
* 電話代が3万円以上 ×
* 荒木飛呂彦 ×
* 楠桂 ×
* 高河ゆん ×
* やぶうち優 ×
* 野火ノビタ ×
* あずまきよひこ ×
* みやすのんき ×
* 平野耕太 ×
* メイド喫茶 ×
* 妄想カップリング ×
* シューティングゲームでスコアカンスト ×
* RPGでレベルカンスト ○
* ゲーメストのハイスコアランキングに載る ×
* ゲーム雑誌の裏技コーナーに掲載 ×
* ゲーム中に寝てしまう ○
* ゲーム機を5台以上所有 ×
* エミュレータ ×
* パソコン自作 ×
* パソコンに愛称を付ける ×
* モバイル通信 ×
* Webサイト所持 ○
* マイドメイン ×
* 青春18切符で旅行 ×
* ムーンライトながら ×
* 鈍行で400km以上旅行 ×
* 鉄道模型購入 ×
* サボ板購入 ×
* 電車で異性を助ける ×
* 大人買い ×
* ネットオークションで購入 ×
* ネットオークション出品 ×
* 大人になってからガチャポン ×
* 1週間以上引きこもる ○
小説を書いたり、webサイトを持ったりしてもおたくなのか?
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October 18, 2005
October 17, 2005
ミステリチャンネルでエラリー・クイーンのドラマをやってるらしい。
オリジナルとは知らなかった……。しかもレヴィンソン&リンクだし……。
スカパー入ってないから見れない。泣きそう。うわああああん。
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October 13, 2005
2ちゃんねるなど2ちゃんねるを見ない人間には存在しないも同然。
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October 12, 2005
をやったら、20点くらいだった。
全国でもかなり下位だった。
試験ってわからないとイヤになってくるね。
頭が痛い。悩みの種は尽きない。
妙な迷路に迷い込んだ気分。
僕が本をまじめに読み出したのは答えを見つけるためだったな。答えなんか書いてあるはずないのに。
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September 30, 2005
わが友よ、のがれなさい、あなたの孤独のなかへ! あなたは、いわゆる世の偉人どものひきおこす喧騒によって、耳をつぶされ、また世の小人どもの毒をもった針によって、刺されつづけているではないか?
~ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』の「市場の蝿」から~
ネットの世界の「市場の蝿」なんて相手にしないほうがいい。
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電ミスのほうで、競作が始まっている。11月26日までに書き上げないといけないらしい。あと2ヶ月くらいある。
参加するかどうかはまだ決めていない。
いちおう映画『グランド・ホテル』を借りて、見たんだが途中で止まっている。最近集中力がなくていけない。2時間のあいだに何か別のやるべきことがある気がする。気持ちが急いて、けっきょく何をしていいのかわからない。
それとは別だが、『不思議の国のアリス』をそっくりミステリ仕立てにすることを考えている。
マッド・ティー・パーティーで紅茶に塩が入れられていたという事件を考えているのだが、いいアイデアが浮かばない。「カラスと机はどこが似ているか」考えているようなものだ(問いから答えを考えるという意味において)。
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September 13, 2005
September 12, 2005
なぜ、現実では「人を殺してはいけない」とされ、フィクションでもそのルールは概ね準用されるのに、現実世界の人間がフィクション世界の人間を死なせることはよいのでしょうか?
フィクション世界の「人間」は人間じゃないからでしょ。「死なせる」こともフィクションだし。
「現実世界の人間がフィクションの世界の人間を死なせる」という表現がそもそも意味不明。作者は神じゃありません。
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September 09, 2005
ネット上のサークルなどで他の方の作品を批評するのは難しい。
あんまり批判すると嫌われてしまうかもしれない。「批評に関しては、私はあなたに遠慮しない。その代わりあなたも私に遠慮する必要はない」というのが、僕の理想なのだけれど、現実にはそうはいかない。
本当の親友同士だったら、けっこう言いたい放題言えるだろう。でもある程度距離のある人たちだったらそれはできない。
うーむ。
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September 07, 2005
つねに断言できる明白なことだけが、僕の頭の中にあるわけではない(それは誰にとっても同じことのはずだ)。曖昧さを残すことが、個人のブログのような領域で許されないはずがない。
時には自分の気持ちさえ、はっきり分からないことがあるのでは? 「~~である」と「~~であると思う」の違いを尊重することが、他人を尊重することではないだろうか。
それに「~~であると思う」に反論できない(しにくい)とは思わないのだが。(←「反論できる」と明確な表現にすべきか?)
むしろこう考えたらどうか。「私は~~と思う」を「ではあなたはどう思いますか?」と捉える。「これは私の意見であって、決して断言しているのではありません。私ははっきりとした考えをまだ持てていません。だからあなたが反論するのは自由ですし、むしろそうしてもらいたいのです」と。
要するに、物事は捉えようなのだ。
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September 03, 2005
2ちゃんねるにさらされていることにいまさら気づいた。
ショックorz。
『扉は閉ざされたまま』は「このミス」にはランクインすると思う。10位以内かどうかは別として。
ま、僕は好きな作品じゃないけどね。ロジックは屁理屈だし、あんなキ○ガイ犯人を擁護するラストを書いた作者が信じられない。僕があのラストにするのなら、もっと犯人を同情できる人間にしたね。
僕はあの被害者を嫌いになれないんだよね。海外で風俗を渡り歩いたって、そんなことが何だと思う。むしろ説得できないから殺す、と考えた犯人が腹立たしい。
というわけでミステリとして見てもたいしたことはないし、なにより小説として不快。
だが一般受けするのはあのくらいのレベルだろうし、意外なことだが僕のように不快に感じる人ばかりじゃないらしい。だから、「このミス」には入ると思う。
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勉強中……。
クイーンは「偽の手がかり」問題には悩まされた、というのが僕の考え。
『ギリシア棺の謎』を書いたのがまずかった。それがあとあと響いてきて、数学の証明問題のようなミステリを書けなくなった。だから「読者への挑戦」もなくなった。彼らはそれを挿れることが不可能になったと判断したのだ。
ちなみに『シャム双子』に「読者への挑戦」がないのは、それが結局「偽の手がかり」を中心とした話だからだと僕は考えている。
ホームズを読んでいる。ホームズは良いなあ。彼は自分が不確実な推理をしていることを知っている。
推理自体には、古臭いところがたくさんある。だが彼の推理に対する根本的な考え方、「推理学」には、大いに共感させられるところがある。
僕が考えている「偽の手がかり」問題は、もっとも実際的なことだと思うのだが、いかが。
第一に、それは空理空論ではない。空理空論だと思うのは、きっとあなたが「読者」であるか、ゲーム性を重視しない作者だからだ。犯人当てミステリを書いてみれば、分かってくれるはず。第二に、これまで「ゲーデル的問題」を考えてきた人びとが、つねに抽象的に考えてきたのに対し、僕は具体的に考えている。実際の作品を分析している。第三に、僕はこの問題を解決しようとしている。それも特殊なやり方ではなく、一般的な定式化された方法を見つけようとしている。その方法で書くためだ。
コミュニケーション能力の不足を批判するのはやめてほしい。
「他者」について考えるべきだ。
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August 26, 2005
今日はいろいろなことを考えたのだが、頭からすっぽり抜け落ちている。少しずつ思い出していこう。
またか、と思われるだろうが、偽の手がかりについて考えていた。手がかりを現象に還元することは可能だ。しかし現象に還元した時点で、もはやそれは「手がかり」と呼べるようなものではなくなるだろう。単に「~がそこにある」というだけでも「~が、そこに、ある」という判断を含んでいる。現象とは知覚されたもののことだ。しかし何の判断も含まない(知覚された)現象は、ロカンタンの目にした「存在」のようなものになってしまうだろう。いや、それ以前のものに。単なる現象にとどまる限り、そこから一歩も推理できないことは明らかだ。(僕の考えでは現象は文章で表現できない。視覚的な現象だったらそれは絵だし、聴覚的な現象だったら音だ。これらを文章で表現しようとするとそこに必ず判断が入る。)
つまり現象からの飛躍が必要になる。それが解釈だ。手がかりは必ず解釈される。
ところが偽の手がかりとはまさにその飛躍する(=不確実な解釈の)部分に陥穽を仕掛ける。たとえば「そこにある」はずのものは、なかったかもしれないし、「これこれの意味だ」と思っていたものは、これこれの意味だと思わせるものかもしれない。
手がかりの存在まで疑う必要は、多くの場合、ない。しかし例外的に視覚を錯覚させるトリックなどがあるので、上のように書いている。
一般的には、手がかりが目の前にあるのに、その存在を疑うというのは、ばかげている。だが、「それがそこにある」という事実だけで、推理をするのは難しいことのように思う。けっきょく、解釈(意味付与)は必要になってくる。
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August 23, 2005
我孫子武丸氏の「叙述トリック試論」を読んだ。
おおむね賛成できるのだけれど気になる記述があった。
“本格”ミステリなどというものにも、もちろん未来なんかない。
僕はこれには断固として反対したい。密室トリック、アリバイトリック、叙述トリックは確かに枯渇するかもしれない。しかしそれが本格ミステリの終わりに繋がるとはまったく思わない。それはトリック中心主義的な考え方だと思う。
英米のミステリ界で、トリックがどのように考えられているのか、残念ながら無知な僕には分からない。だが、日本が今も昔もトリックを偏重していたのに比べて、トリックというものはごく軽く見られている(というか、ほとんど見られていない)のじゃないかと思う。どちらの見方が正しいとかは言わない。だがミステリとはまずなんといっても「謎と解決の物語」であってトリックの物語ではない。
トリックがなくなれば、本格も滅ぶか? そんなことはない。本格の魅力は謎と解決(と推理)の魅力なのであって、トリックはそれを演出するひとつの手段に過ぎない。
それに「使い尽くされたトリックなどない」という泡坂妻夫氏の言葉もある。
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2chでしか人を批判できない弱虫がいる。アホ。
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/mystery/1114671382/695
何でこういう日本語になっていない文章を書くかね。キ○ガイ?
吹雪はたまたま起こったんであって、あれがなくてもクローズドサークルは成立します。お分かり? お馬鹿さん。
古典ミステリが好きだー!
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いま山下正男『論理的に考えること』を読んでます。
非常に分かりやすく、また内容もおもしろいです。著者はホームズ物語のファンなのでしょうか、ホームズ物語からの例が頻出します。
39節目に「ホームズの推理法は、病気の診断の方法に似ている」ということが書いてあります。「なるほど」と思いました。コナン・ドイルは医者ですし、ホームズのモデルとなったジョゼフ・ベル博士も医者なのです。
後件肯定式
PならばQ
Q
ゆえにP
病気Aならば症状Bを呈する。
症状Bを呈している。
ゆえに病気Aである。
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August 18, 2005
昨日の記事は間違っていた。だが何が正解なのかはまだわからない……。
とりあえず間違いを訂正しておく。
「(A)テーブルの上に、市販のアイスのカップがひとつ、(B)金メッキのスプーンがひとつある。(C)カップの半分くらいのアイスは溶けてしまっている。(D)スプーンには溶けたアイスがついている。」をひとつの手がかりとみなしたのが間違いだった。
「アイスを食べた跡がある」は解釈だが同時に推理だ。
ABCD
↓ab
アイスを食べた跡がある
だ。手がかりにまで遡行するとは、解釈を含まない現象にまで遡行するということ。逆に言えば、解釈を含む限り、それは手がかりとはいえないということ。確実なのは現象だけだ。
きのう例としてあげた解釈はどれも推理というべきものだ。
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August 17, 2005
「偽の手がかり」とは何なのかについてきちんと定義していなかった。「本当の手がかり」とは何か、「偽の手がかり」とは何かを、あらかじめしっかり定義しておくことが、今後の議論を混乱させないために必要だと思う。
「テーブルの上に、市販のアイスのカップがひとつ、金メッキのスプーンがひとつある。カップの半分くらいのアイスは溶けてしまっている。スプーンには溶けたアイスがついている。」
手がかりとは上のことだ。上の文章は、ほとんど判断を含まない。現象を忠実に模写しただけである。
この手がかりからどんなことが判断できるか。
「アイスを食べた跡がある」
問題は、様々なことが判断できるということだ。物事は常に多面的である。
「スプーンでアイスを食べたらしい」
「アイスをひとりで食べた跡がある」
「アイスを買ってきたらしい」
「溶けたアイスを食べるはずがないとすると、誰かが食べたときにはアイスはまだ溶けていなかった。とすれば、誰かが食べてから、アイスが溶けるまでの時間がいままでに経過している」
「アイスを食べていた人は、なぜアイスを放って置いたのだろう? アイスを放っておかせる何事かがあったのだ」
……などなど。
「偽の手がかり」とは上のような無限の判断(解釈)のいずれかを錯覚させるものだ。
たとえば、「アイスを食べた跡がある」と思わせて、実際は違ったのかもしれない。
「溶けたアイスを食べるはずがないとすると、誰かが食べたときにはアイスはまだ溶けていなかった。とすれば、誰かが食べてから、アイスが溶けるまでの時間がいままでに経過している」と思わせて、実際は違ったのかもしれない。
僕はこれまで、手がかりと推理を区別していた。しかし手がかりにも解釈が紛れ込まざるを得ない。現象がニセであることはできない。現象の解釈がニセなのだ。
あ゛ーっ! ……頭が痛い。
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August 16, 2005
を読んでいます。
本当は↓
をやっていたんですが、難しくなってきたのでいったん中断。
厳密さよりも分かりやすさを重視していると思われる『ゲーデルは何を…』を先に読むことにしました。
なんでゲーデルを勉強しているかというと、ひとつは、ミステリでゲーデル的問題といわれているものは本当にゲーデル的問題と呼びうるのか、という問いに答えるため、もうひとつは、ゲーデル的問題(広い意味での)に興味が湧いてきたため。
僕は完全な文系人間ですが、がんばります。あるひとつのことを研究するにはその周縁のことも学ばなければならないのです。柄谷行人、デリダあたりも読まなければならない。
偽の手がかり問題は、不完全性定理よりも非ユークリッド幾何学に近いかもしれない。
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August 15, 2005
現われるデータをすべて「手がかり」と呼ぶことにする。
作品内世界レベルとテキストレベルに分けて考える。
作品内世界レベル……作品内に世界が存在し、その世界の探偵が、手がかりの真偽を判断できるか? 手がかりの真偽を判断するための手がかり、その手がかりの真偽を判断するための手がかり、……。それ自体として偽の手がかりと考えられない手がかりとはどのようなものであるかを考えること。
テキストレベル……作品をテキストとして捉える読者のレベル。この場合、手がかりはすべて文章として現われる。「地の文に嘘をついてはならない」から、地の文の記述は無条件に本当の手がかりである。
解決!!!
「読者への挑戦」をいれる。
「地の文に嘘はない」ことを明言する。
読者が推理するように、探偵にも推理させる。(このとき探偵が手がかりの真偽を判定できるかなど考えさせない。探偵などいない。作品内に世界などない。)
いちおう上のような解決を考えたが、まだ穴がないか検討する。
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August 14, 2005
下の記事において、手がかりの真偽を検討するのに、別の手がかりを使っていることに気づきました……。少し考えさせてください。
柳川貴之「推理小説の形式的構造論」を読んでみたい。『創元推理21〈2001年冬号〉』に載っているらしい。
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推論の構造分析を実際にやっていきます。(名前をすこし変えました)
簡単なものからいきます。性質上、完全なネタバレを含みます。当該の作品を未読の方は読まないでください。
まず麻耶雄嵩「白幽霊」(『名探偵木更津悠也』所収)。完全なネタバレです。
この作品は非常におもしろい構造で事件が組み立ててあるのですが、犯人を推理するロジックは非常に単純です。その部分だけを独立させて見てみます。
A、カーテンに切り取られてできた穴がある + B、中村の証言
↓de
犯人は背が低い + C、容疑者たちの身長のデータ
↓de
犯人は清美
手がかりAとBから、「犯人は背が低い」という結論が導かれ、その結論が手がかりCと結びついて、「犯人は清美」という結論を導いています。本当はもっと詳しいことを書き込んでもいいのですが、とりあえずこれで十分でしょう。
矢印の横にあるdeはdeduction(演繹)の略です。破線の矢印を書けないので、演繹だったら↓deと、アブダクションだったら、↓abと書くことにします。
「偽の手がかり問題」とはツリーの末端にある手がかりがニセモノかもしれない、という問題です。
結論から言うと、この手がかりABCはどれも偽の手がかりではありえません。
Cは偽の手がかりではありません。他人の身長を伸ばしたり縮めたりはできません。(ここで注意が必要なのは、読者にとっては、手がかりCは直接与えられたデータではなくて、作中の様々な叙述から判断しなければならない手がかりだということです。作品内の探偵と読者に与えられるデータとのずれがあります。この種のずれは、今後たくさん出てくると思います)
Bは偽の手がかりと考えられるか――つまり証言が嘘だと考えられるか。読者にとっては証言が真実であることは自明です。なぜなら地の文に彼が見たということが書いてあるからです。(ここでも読者が与えられるデータと探偵が与えられるデータにずれがあります。)探偵にとってはどうか。やはり偽の手がかりとは考えにくいでしょう。中村は外部の人間です。彼が犯人であるとか、犯人をかばっているとは考えにくいでしょう。それにこの場合は、一種の密室状況が、彼が犯人であることを否定しています。つまりBも本当の手がかりです。
Aはどうか。中村の証言が正しいとすると、この手がかりAも本当の手がかりと考えざるを得ないでしょう。中村が見ていることを期待して、カーテンに穴を開けてそこから顔をのぞかせるという演出をしたのでしょうか。しかし中村は真っ暗な路地にいたのだから、それは考えられないでしょう。
上のように、すべての手がかりが、偽の手がかりでありうるというわけではないのです。偽の手がかりとは考えられない手がかりがある、ということを、納得していただけたのではないでしょうか。
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August 13, 2005
「推理の構造分析」を実際の作品をサンプルにやっているのだが、これがなかなか難しい。頭が痛くなる。
問題となっているのは、推理の正しさではなく、手がかりが真か偽かというところだけなので、手がかりを見つけたら、それが偽の手がかりだった場合を考える。そこから矛盾を導いて、手がかりは本物ということを示していく。この手続きをいろんな作品に対して試してみることで、偽の手がかりと考えられるものは非常に少ない、ということを最終的に示してみせるのが、僕の目的。
これを示すことができれば、「偽の手がかり問題」に怯えていた人たちも恐れから解放されるのではないだろうか。ミステリの根底に横たわる不安を解消できると思う。
……僕の不安は、この計画が失敗するのではないかということ、つまりミステリの無底性をみずから証明してしまうことになるのではないかということ。
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August 12, 2005
ゲーデルの不完全性定理の最も重要なアイデアは、メタ数学という自然数論の公理系としての完全性・無矛盾性を証明する立場そのものを、ゲーデル数化というテクニックによって、ふたたび自然数論の公理系の中に繰り込んだ、という点にあると思う。
つまり自己言及性を意識して生み出そうとした。ゲーデルは不完全性定理を証明するまえに、パラドックスを勉強したらしく、パラドックスがけっきょく自己言及であることに気がついたのだろう。「私は証明できない」は決してパラドックスではないけれど、自己言及であることは確かで、それゆえに、不完全性が公理系の内部で証明された。
自己言及は、形式の中で奇妙な歪みを生むことがある、と考えてよいのではないか。これは感覚的に考えても納得できることだと思う。
だが、くりかえしていえば、それはゲーデルの定理を他の領域に翻訳することであるよりも、逆にゲーデルの定理こそ、本来数学とは無縁な問題、すなわち「言語は言語についての言語である」という自己言及性の問題が数学のレベルであらわれたのである。ゲーデルの定理が形式体系一般に当てはまるとすれば、それは「形式化」が数学そのものとは別のところからきてるからだ。
~柄谷行人「形式化の諸問題」~
この文は、ゲーデルの不完全性定理と「ゲーデル的問題」の意味の違いを理解するのにちょうどいいと思う(ホフシュタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』に触れた後でこの文が出てくる)。柄谷行人によれば、形式化に付きまとう「ゲーデル的問題」があったから、ゲーデルの不完全性定理は証明された、ということ。
野矢茂樹『論理学』は昨日やっと終わった。
「不完全性定理」の章は難しくて時間がかかってしまった。完全には理解できなかったが、アウトラインは把握できたと思う。
論理と推理について独学を続けるつもり。
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August 11, 2005
お読んだ。
「ゲーデル的問題」が扱われているらしいので、読んでみた。
「無限の月」……直接「ゲーデル的問題」という言葉は出てこないが、偽の手がかりやゲーデルの話がでてきたりするので、意識しているのだと思う。
『Q.E.D.』のいいところは、「いい話」をミステリ部分にうまく絡めるところだね。
ミステリとしてもかなりよくできている。傑作。
これを読んで、考えたことは、矛盾に到達したら、原点(手がかり)にもどれ、ということ。正しく推理しているならば矛盾するはずがないから。だとしたら手がかりが偽装なんじゃないか、と疑える。
「多忙な江成さん」はおまけっぽい。これはこれでおもしろい。
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もはや、自分がミステリに興味があるのか、推理に興味があるのかわからなくなってきた。
「推理の構造分析」という手法を考えた。野矢茂樹『論理トレーニング101題』にある、推理の図式化の方法を借用する。何日か前のエントリには「公理系」と書いているが、もちろん公理系ではなく、単に推理の構造を把握する目的のものだ。この手法によって、何から何が導かれているかを、明瞭に見て取ることができる。
ミステリで使われる推理には二種類(推測(アブダクション)/演繹)あるので、それを矢印で区別して表現する。破線が推測、実線が演繹。(ちなみに「推測」とは逆向きの演繹を表す。)
ある手がかりから推理されて結論が導かれ、そして結論と結論からまた別の結論が出てくる、という具合だ。
この構造分析の利点は、1、「手がかりや隠れた前提にまで遡行できること」、2、「推理を批判的に捉えられること」だ。
手がかりや隠れた前提は、ツリー状構造の末端――つまり木の葉っぱにあたる部分になる。それが末端にある、ということは、何の批判にもさらされていないわけだ。名探偵たちが無条件に受け入れるこれらのものが、「偽の手がかり問題」としてロジックを――引いてはミステリを根本から揺るがすのだ。
本当に「偽の手がかり問題」はロジックミステリにとって致命的なものなのか。本格推理小説に対する死亡宣告なのか。ミステリの無底性を暴露するものなのか。
僕の目的は、これらの問いに対して「違う」と断言することだ。「偽の手がかり問題」を解消することで、ミステリに基盤を取り戻させる。そしてあわよくば「後期クイーン的問題」なるものも解体してみせる……つもりだ。
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August 08, 2005
ゲーデルの不完全性定理と「ゲーデル的問題」は区別されるべきだと思う。
ここで「ゲーデル的問題」と呼ぶのは、柄谷行人の命名によるもので、形式化を突き詰めていく過程で、形式が内部から壊れてしまうことをそう呼ぶ。
だから、ミステリには「不完全性定理」は関係しない(これは自明なことであり、ミステリ界隈でゲーデルを云々している人も、「不完全性定理」そのものがミステリに関わるとは思っていないはずだ)。だが、「ゲーデル的問題」は関係する。それはミステリが形式的だからだ。
というか、何と名を呼ぼうが問題がそこにあることは事実だ。
いまのところ、僕がロジックにとって致命的な問題と考えるのはただひとつ。「偽の手がかり」だ。
「ゲーデル的問題」など存在しない、という方には、ぜひとも「偽の手がかり問題」を解決していただきたい。
問題は単純ではない。一般に信じられているように、「メタレベルから『偽の手がかり』を禁止すれば良い」という解決策はだめだ。なぜなら、ほとんどあらゆることが「偽の手がかり」と呼びうるからだ。
犯人が完全に無作為だったら、……可能かもしれない。
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August 06, 2005
「テイルズ・オブ・ジ・アビス」発売決定。
え~。まだ「レジェンディア」発売していないのに……。
『論理学』は第4章に突入。
「直観主義論理」という、「排中律」を使っちゃいけない、よく分からない章。
これが終わったら、やっと第5章「不完全性定理」に進める。
ミステリの形式化について考えている。
僕は暇つぶしにこのことを考えているのではなくて、ミステリにとって(少なくともロジックミステリにとって)本質的な問題だと思うから、考えている。(というか、書くときに困るから)
けっきょくみーちゃんが古典を認めないのは、自分が古典を読んでいないというコンプレックスがあるからだ。
だから、「おもしろがる」ことができない。
したがって平等に見たという言葉は信用できない。古典を貶めることで自分のコンプレックスを慰めようとしているから。
(ちなみに僕は「おもしろがる」ことは得意だ。僕はつつましさを持っている。)
もちろんみーちゃんと逆の人間も想像し得る。その場合は、現在の作品を貶めることで自分のコンプレックスを慰めようとするだろう。
みーちゃんは古典に過剰な価値を求めすぎだと思う。だからその反動としてつまらなく感じる。
「諸君の学識は」って、これもコンプレックスだなあ。
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August 05, 2005
興味深い論文たち。
高柳太一「探偵小説の理論―形式化とデータベース―」
MAQ「MDS自殺遺伝子からPMDSへ(ノーカット無修正版)ゲーデルをめぐる一妄説」
「「後期クイーン的問題」レクチャー」
ミステリにおける推理を公理系として捉える。
手がかり 手がかり 一般常識 ルール(「右利きの人は右手を使う」など)
↓ ↓ ↓ ↓
定理 定理
↓ ↓ ↓
定理
↓ ↓
真相
偽の手がかり問題と関連して、
「フレーム問題」
偽の推理のために配置された偽の手がかりは、メンバー(手がかり)がクラス(推理)に言及しているということ。ここでパラドクスが起きる。
手がかりはそれ自身では真か偽か判断できない。
僕は以前、「別の手がかりで真偽は判定可能だ。だからパラドクスは解消される」と考えていた。だが、手がかりが別の手がかりによって否定されるということは、お互いに矛盾しあうということに過ぎない。手がかりAを真としてとるか、手がかりBを真としてとるか、どちらも偽とするか、決定不可能だ。
手がかりを偽装しえたか、そのチャンスが問題になる。
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<読者への挑戦状>がある場合、手がかりは有限である。
手がかりAと手がかりBが矛盾している。そのとき、どちらを本物の手がかりとするか(またはどちらも偽の手がかりか)?
読者のいちばん愚かしいところは、読めていないのに読めていると思っていることである。しょせんキャラクターとストーリーしか読めないのに、分かっているつもりでいる。
小説とパズルを比べて、小説のほうが上位であると決め付けるのはどういうわけか。けっきょくそれは価値判断に過ぎず、恣意的なものじゃないか。
僕はもうずいぶん前から、小説に失望しているのだが。
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August 03, 2005
1+1=2はある関係を表しているだけで、物事を表しているのではない。つまり代入可能な「関数」のようなものだ。(もちろん1+1=2は関数ではないが)
「普遍的なのはなぜか?」ではなく、「なぜ人間はルールを覚え、それに従うことができるか?」だ。
「(しかしこのことですべての「普遍性」の問題を扱いうるとは考えません)」とは、頭の中の「普遍性」と、実在の普遍性が混同されているように感じたから、そう書いたまでだ。
法月論文をきちんと読み直している。
それについて何か書くかもしれないし書かないかもしれない。
「初期クイーン論」と「一九三二年の傑作群をめぐって」を読んだ。
いまは、特に書くべきことが見つからない。頭の中が空っぽになった。
クイーンはミステリを形式化しようとした。そして挫折した。だから、今度はおそらく反動として、脱構築しようとした。いま言えるのはそれくらい。
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推理小説の批評などで「作者は犯人に近い立場で、読者は探偵に近い立場にいる」というのは一面的過ぎる見方だと思う。
僕などはむしろ探偵のほうが作者に近いのではないかという気がする。コロンボにも、ある推理作家に対して「あなたは犯人の立場で書いているんじゃない。探偵のように書いている」というセリフがあった。つまりこれを自分のことを言ったことと捉えれば、倒叙ものを作る場合でも、探偵の側に立って書いているということではないか。
「このような推理がなされなければならない」→「よってこの手がかりがいる」→「だから犯人にこう行動させる」。特にロジックものの場合はこうやることが多いはずだ。
(倒叙ものがロジックものだと気づいていない読者が多いのは意外だ。何度も書いたことだけれど、倒叙は謎と解決がない。よって手がかりや推理が大事なのだ。ロジックものと同じだ。)
ホワイに重点をおいて、その解明に論理のアクロバットを用意する。これが、現代のパズラーです。
~都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』~
SAKATAM氏やMAQ氏の論考にあるように、ホワイの謎は、厳密に論証的に解明することはできない。クイーンですらしばしば(おそらく詐欺であることを分かっていて)、こういうことをやっている。ある行動をする理由を箇条書きして、一個一個消去している。しかしこれは偽の消去法だろう。理由は限定できないはずだ。
ところが、クイーンの作品にはホワイを扱うものが多い。なぜか?
それはミステリには謎が必要だからだ。「誰が犯人か?」はあまりに弱い謎であり、ミステリを読みなれた読者には飽き飽きしている謎だ。つねに魅力的な謎を模索するうちに、さまざまなホワイの謎を設定したのだろう。ホワイが好都合なのは、厳密に論証的に犯人を指名したら、後は想像で、ホワイの答えを与えればよいという点があるからだ。
なぜハウではないか? ハウは方法を問うものである以上、その方法だけで犯人を限定しやすい(→犯人限定のロジックの活躍する場所がない)というのがひとつ、もうひとつはトリックをロジックで解くことが難しいからだろう。
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August 02, 2005
野矢 茂樹著
東京大学出版会 (1994.2)
通常2??3日以内に発送します。
上のを使って論理学を勉強しています。
第2章「述語論理」の第2節「述語論理の基本概念」まで行きました。
非常におもしろいです。演繹的に組み立てていくところは数学みたいですし(これを「公理系」と呼ぶらしいです)、パズル的なおもしろさもあります。それに、言語に直接関わってくるので、言葉のある側面を明らかにしてくれる学問だとも言えると思います。もちろん言葉そのものを扱うというよりも、言葉の背後にある論理に迫っていく過程で、そうなるのですが。
こういうのを読んでおけば、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』がかなり分かりやすくなるんではないでしょうか。
ゲーデルの「不完全性定理」まで解説してあるようなので、ちゃんと最後まで行くつもりです。
「不完全性定理」といえば、いろんなところで耳にしますからね。柄谷さんの「隠喩としての建築」や法月さんの論文でも中心的道具立てでした。なので、ここでいちおう押さえておくかなと。
とそのような勉強を進めつつ、論理関係の本を読んでます。
「普遍性」ということがネット上で話題になっているようですが、いま思いついたのは、けっきょく、記号と記号の使用法が普遍的なのではないか、ということ。
たとえば、多くの人が1+1=?と問われて、2と答えるのは、1や+や2といった同じ記号が使われていることと、それが正しく使用されていることだけを表すのではないか。つまり1+1=?と聞かれて、同じことを考えるとは限らない。ただその記号が同じことや記号の使用法が正しいという意味において、「普遍的」だといわれるのだ、と。
これは日常言語でも同じことがいえるのではないでしょうか。同じ言葉でも同じ意味とは限らない。ただ文脈の上でその言葉の使用が正しいから、その言葉が使われるのだ。「その使用が正しい」という点に眼をつければ、普遍的だといいうるだろうし、逆に意味の微妙な差異に目をつければ、普遍的でないといいうるのではないか。
(しかしこのことですべての「普遍性」の問題を扱いうるとは考えません)
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July 25, 2005
今、
をやってます。第4章の練習問題をやっているところ。
チョー分かりやすいのでチョーお勧めです。
ミステリの推理について、ある程度結論を出してしまいたいので、論理学をすこし勉強しようかなと思います。
ミステリの推理が論理学的なものかどうかは別としても、ひとつのアプローチの仕方として、論理学を基に考えてみるのはありだろうと思うので。
この本にも、ミステリが例文にとられています。久生十蘭の『顎十郎捕物帳』のとドイルのホームズ譚の推理がとりあげられています。
ミステリの推理に対しても、論理学的なアプローチは可能なのですね。
で、興味深いのが、推理の方法が、「演繹」と「推測」の2種類ある、とされているところです。この2つの内容は、MAQ氏SAKATAM氏の「解明」と「解釈」、僕の「演繹」と「直観」に、かなり似ています。論理学の領域でも、こういう捉え方をされている。これはかなり驚きというか、自説に自信を持てました。
「演繹」と「推測」の説明を引用します。
演繹:根拠とされる主張を認めたならば結論も必ず認めねばならないような決定的な力を期待されている導出。
推測:あることがらを証拠として、それをもとにそのことがらをうまく説明してくれるような仮説を形成するタイプの導出。
ね、ね! まんま同じでしょう?
「解明/解釈」「演繹/推測」とおんなじですよ。
これはもっと一般的な推理について語ってあるわけですが、もうミステリのことだとしか考えられない。ミステリ的に解釈すれば、所与のデータ(手がかり)Pから「真相」Qを推理するときに、
P→Qというふうに演繹的に推理すれば、「演繹」
P←Qとなるような仮説Qを模索すれば、「推測」
なわけですよ。
「演繹」を「ボトムアップ」、「推測」を「トップダウン」と表現したものを、ミステリ系サイトで見たことがあります。この表現も同じことを表しているのだと思います。
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July 24, 2005
後でちゃんとまとめます。
1、形式論理学の「ならば」はいつも演繹推理だ。
2、ミステリにおけるロジックは、推理の正しさよりも結論の確からしさを重視する。したがって、正しい推理が納得しがたい結論を導いた場合、きっと、それはロジックとは認められないだろう。
3、ミステリにおけるロジックは、本質的に「形式論理学」ではない。実質論理学とでもいうべきものだ。(もちろんその実質から、形式を取り出すことはできるが)
4、どんなミステリも、真相→謎と手がかり、ということはできない。なぜなら、その真相が、その謎と手がかりを必ず生む、とは限らないから。
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July 20, 2005
に出ていた京極夏彦氏を見た。
たまたま、テレビをつけたら出ていらっしゃった。
僕とは180度考え方が違うのだけれど、たいへん参考になった。逆の立場の人の話を聞くのは、楽しいことだと感じた。
次作に取り掛かる。
当初、使う予定だったアイデアは放棄し、別のアイデアを使うことにする。
また、あるテーマに真正面から取り組むつもりなので、そのテーマの作品を集中的に読む。ま、いちおう押さえておくべき作品と思われるものを、つぶしておく、ということ。
完成までには、ずいぶん時間がかかりそうな予感。
書店に行ったら、アルテの『カーテンの陰の死』があった。が、いまのところ、上記の作業に忙しいので、後回し。
石持浅海の「貧者の軍隊」の密室トリックはマクベインの『殺意の楔』のパクリ。
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July 16, 2005
間違った!
先日の記事に演繹法と帰納法を対置して書いた。しかしあれは、大事な部分で重大な誤りを犯していた! 僕にはよくあることだ。よって僕の言うことは、信用しないでもらいたい。
「ロジックと『毒入りチョコレート事件』」で「帰納法」としている推理は、むしろ「直観」といったほうがいいと思う。笠井潔さんと似たような理論になるけれど、「直観」と「演繹」の対置のほうがしっくりくる。(MAQ氏の理論では、順に「解釈」と「解明」になる)
下の記事で何がいちばんまずい間違いかというと、手がかりから帰納する、と言っている部分だ。むしろミステリの謎解きにおける帰納とは、類似の事件を参照にして真相を推測する方法などになるだろう。たとえば、刑事のカンのようなものが働く場合(カンといっても経験によるものだろうから)。
下の記事で、論理パズルを例に取り、空欄を先に埋めてしまう方法は、帰納法ではなく、むしろ「直観」推理法と考えるべきだ。
というわけで、「ロジックと『毒入りチョコレート事件』」の記事中の、「帰納」の部分は完全に間違っているのだけれど、「演繹」について考えていることは、変わらない。そして「直観」や「帰納」が間違いの危険性をはらむのに対して、「演繹」が間違いの可能性を小さくする、という点でも、考えは変わっていない。
はあああああ。僕って駄目だな。
思わぬ部分で失敗していたので、ややわかりにくくなってしまった。まとめてみる。
津田裕城氏、MAQ氏、SAKATAM氏の「解釈の論理」/「解明の論理」は、「直観」/「演繹」と言えるのではないかと思う(ここでの直観は、いわゆるあてずっぽうじゃない。まあ「本質直観」かな)。
一般のミステリでは、「演繹」や「直観」のどちらも使われていることが多いように感じる。たとえば都筑さんの『退職刑事』もクイーン流のロジックとは違って、理詰めな部分と飛躍する部分がある。完全に直観でもなければ、完全に演繹でもない。また論理パズルで申し訳ないが、下の論理パズルでもある程度場合が絞り込めたら、答えをカンで代入して、手がかりと矛盾しないか確かめたほうが早い。多くのミステリはこのような「解かれ方」をすると思う。
「ひと口にいえば、探偵小説の根本にあるものは、因習的、先入主的な物の見方に対する反撥で、そのような浅薄な物の見方に対して、自分の眼で物を見る探偵が、個性ある結論を出す――その自分の眼で物を見る事の魅力だと思います。論理性は、その結論を導入するための道具に過ぎず、そして、論理にも、自分の眼が必要です。」
狩久の言葉(『鯉沼家の悲劇』光文社文庫の解題より引用)
「ポーが作り出した探偵(デュパン)は、そのような警察の実証主義に対立する。(中略)それは実証主義知性にとって見えないような謎を解明する知性主義でもある。」
柄谷行人の言葉(夏目漱石『彼岸過迄』新潮文庫の解説より引用)
上の引用二つは、似たようなことを言っている。警察が実証主義や帰納法や経験や常識によって犯人を捕らえようとするならば、探偵(もちろんミステリに出てくる探偵)はそれとは違って、あらゆる先入主を捨てて知性や論理(「直観」や「演繹」を含めた広い意味で)で、真相を見出そうとする、ということだと思う。
まだ間違いがあるかもしれないのでよく考えたい。ご意見をお待ちしています!
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July 14, 2005
讒謗家って本当にいるんだねえ。誹謗中傷のビラを近所に撒き散らす主婦とかの話を小説で読んだことがあるけれど、実際にいるとは。キチガイだ。
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July 13, 2005
クイーンは何かのアンソロジーの序文で「演繹法による推理」という言葉を使っていた。『日本傑作推理12選 第1集』かな。日本の推理作家は演繹による推理を使っているのだろうか、という意味の記述だったと思う。
重要なのは、クイーンが自分のスタンスを「演繹」だと認識していたということだ。まさにこの言葉で自分の作品を表したということだ(しかも作品の外で、だ(作品の中の言葉などまず信用できない))。つまり無自覚にやっていたのではなかった。
ではここで「演繹」とは何を指して演繹といっているのか。もちろんロジックだろう。手がかりを拾い集め、他の可能性を排除しながら、真相へ近づいていく(遡行していく)ことだろう。
演繹による推理ではなかったら、どんな推理なのか。
『毒入りチョコレート事件』では、ひとつの事件に対していくつもの「解決」が出される。しかしこの作品の本当のすばらしさは、370ページの表にある。ここでは推理を分析してあるのだ。異なる推理法によって、異なる解決が出されているのだ。見てほしいのは「証明法」のところ。「帰納法」「演繹法」という言葉が目立つ。僕は最初これを読んだとき意味がわからなかった。(辞書を引いて意味を確認したくらいだ。)だが慎重に読み返してみて、やっと意味がわかった。
手がかりから確実なことを導き出し、事実に遡行していく推理を「演繹法」といっているのだ。逆に仮説をまず立て、それによって手がかりを説明する推理を「帰納法」といっている。僕には両者は完全に違ったものに見える。(これは僕の発見ではなくて、バークリーの発見なのだ。ミステリに論理学を導入したのだ。)
ミステリで例をとるのはわかりにくいから、論理パズルを引用して、話を進める。
ヘルナンドら4人は、ミリーのカントリー・レストランに毎朝ほかの客よりも早く訪れます。4人はどの日も同じ順序で到着してコーヒーを注文します。コーヒーに、ひとりはクリームと砂糖だけを入れ、ひとりはクリームだけを入れ、ひとりは砂糖だけを入れ、ひとりはブラックで飲みます。
以下の手がかりから、4人(姓はブラウン、フリン、リンダー、ラブル)がどの順で到着し、どのようにコーヒーを飲むか、あなたはわかりますか?
これだけの情報だったら、どうとでも考えられる。ミステリだったら、何通りもの多重解決ができる。だが手がかりがまったくない(シチュエーションがない)ミステリなどありえない。
1、最初に到着する人はクリームを入れます。4人目はクリームを入れません。
これだけ手がかりが与えられたとする。ここで活躍するのは、帰納法による推理だ。ひとつの手がかりと矛盾しない解決を思いつけばよい。運がよければ当たる。だが、運がよければ、だ。
ところが、演繹法による推理とはそれとは違うのだ。
2、ブラウン氏はクリームをいれず、ジョージより早く来ます。ジョージはクリームを入れます。
3、フリン氏はクリフより早く来ます。二人とも砂糖を入れません。
4、マット(クリームを入れない)は朝食にいつもホットケーキを注文しますが、リンダー氏とブラウン氏はいつも卵を注文します。
これでやっと解はひとつになる。つまり手がかりと真相が互いに必要で十分になるのだ。手がかりのひとつひとつを読み解き、ゆるぎない論理によって唯一の解を確実に見つけ出すことが演繹なのだ。
(もちろん、4つの手がかりがそろったとしても、帰納的に考えることはできる。まず適当に解を代入して、手がかりと矛盾しないか確かめればいい。)
そしてこういうミステリこそが、ロジックによるミステリ、「演繹法による推理」があるミステリなのだ。仮にもロジックを使う限り、作者は手がかり1だけを出して放置しておくことはできない。手がかり2,3,4も出さなければならない。解をひとつだけにするような手がかりを捻出しなければならないのだ。
まだ二つの区分がはっきりしないかもしれない。読者に真相が開示され、多数の手がかりがそれを保障したとしても、それはロジックではない。なぜなら、それは帰納的解決であり、したがって別解が存在するかもしれないことを示している。すべての手がかりを何通りもに巧みに説明することなどできるのだ。(詳しくは電ミスの第3回リレー小説を見てください。)そのことを『毒チョコ』は言っていると思う。事件の解釈は多様であり、真相など無限につむぎだせる。チタウィックにもその意味の言葉がある。
デビュー前のクイーンが『毒チョコ』を読んでいたかは、わからない。確か、読んでいた、という記述をどこかで見た気がするのだけれど……。クイーンの演繹推理の姿勢は、決してチタウィックの言葉によって損なわれるものではない。むしろ強化される。なぜなら、演繹的に推理するならば、必ず正解にたどり着くに違いないからだ。事件が潜在的に多重解決の落とし穴をたくさん持っているとすれば、演繹的に正しく推理させ、そういう穴をつぶしていかなければならない、というミステリに対する思想をもって、クイーンが書き始めたかもしれないのだ。
だからロジックものを書くときには、作り方も違ってくる。普通だったら手がかり1だけで満足してしまうだろう。真相はこうでした、この手がかりはこういうことです、と。だがロジックものはそうは行かない。手がかり2,3,4もちゃんと作らなければいけない。そして手がかりから論理的に導かれることを導き、真相に到達しなければならない。
論理パズルは↓から引用しました。
小野田 博一 / デル・マガジンズ社
講談社 (1993.10)
通常2??3日以内に発送します。
上の論理パズルの解答欄。
名 姓 コーヒー
最初
2番目
3番目
4番目
( )使いすぎた。
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July 12, 2005
特殊な自殺の方法を考えた。
霊魂だけ死んで、肉体を死者の霊魂に譲るのだ。肉体は死なないから、周りから見れば、生き続けているように見える。(ただし肉体を明け渡す相手は、人徳者じゃないと、自分の体で何をされるかわからない。僕より立派な人であってほしい。)
と変なことを考えるくらいには憂鬱である。喜劇的憂鬱。
僕は天国はないと思っていたが、あるんじゃないかと最近思うようになった。
「ロジックに関する覚書」SAKATAMさん。
おー、すごい。
Pは「謎プラス手がかり」かな。
「解明の論理」における解釈のおもしろさは、いわゆる「論理のアクロバット」だと思う。都筑さんがこの言葉で表現しようとしたのは、これじゃないかな?と思った。(僕は、最初この言葉を知ったとき、「アクロバットしたらロジックじゃない」と思った。いまは、ロジックをもっと広い意味で捉えている。)
ちなみに『エジプト十字架の謎』の決め手のロジックは、じつは事件のシチュエーションと考え合わせないと、証明にならない。(ネタバレ)被害者が隠れていたということと、現場の周囲の足跡。(ここまで)
読み手からすると、感動するのは「手がかりのトリック」(by天城一)(≒(意外な)手がかりから意外な解釈を引き出すこと。論理のアクロバット)なんだろうけれど、作り手からすると、細かい可能性の排除も大切だと考える。だから僕は、丁寧な消去法にも、感動を覚える(つまり、アクロバットがなくても、おもしろく読むことが多い)。どんな場合でも、(ミステリ的)論理が現実に適用されれば、たちまち美しく輝きだすというのが僕の信念だ。
アリバイ崩しと倒叙ものには似た部分がある。以下は一般的な話。
1、探偵と犯人の一騎打ち。
2、アリバイ崩しは中盤、倒叙ものは冒頭から犯人がわかる。
3、アリバイ崩しは、(完全)アリバイがいかに崩れるか、倒叙ものは、(完全)犯罪がいかに崩れるか、ということに重点が置いてある。
4、(完全)アリバイ/犯罪が崩れるきっかけが手がかりであり、そこから導き出されるロジックだ。手がかりとロジックが重要。
もちろん違う部分のほうが多い。たとえば、アリバイ崩しはトリックがメインだろうし、倒叙ものでは決め手となる証拠(またはロジック)がメインだろう。でも上のような共通点があるといえるのではないか。
上で書いた「手がかり」という言葉は広い意味での手がかりであり、伏線や状況証拠を含む。
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July 07, 2005
公開されました。
私のは倉本光とあるやつです。いまは他の方々のを読んでるところです。
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July 04, 2005
ロジックは、(本格)ミステリにとって、あってもなくてもいいものなのです。トリックと似たようなもので、一種のスパイスですね。
そんなことを考えて、「ホームスとワトソソ」を書きました。
次作に取り掛からねば。
テーマは……書かないほうがいいかな。
この道に志す人びとが、心にとめておかねばならぬ第一のルールは、諸君がこれからなさんとするところのものを、事前に観客にしらせてはならぬということである。かかることをなさんか、それは観客の目をくらますもっとも必要のある方向を、たちまち彼らの警戒心に教え、種を見破られる機会を十倍にするものである。
ホフマン教授『近代魔術』
~カー『曲った蝶番』(創元推理文庫)~
孫引きです。
至言ですね。手品にとってもミステリにとっても。
僕が書くものはけっきょく箱庭的世界のなかで展開されるものにしかならないのだろう。それが現在の限界だとしても、その世界の中では矛盾のない完全なものにしたい。
いちど書いたことかもしれないけれど、僕が本格ミステリを書くのは、本格ミステリしか書けないからだ。
本格ミステリクラブ(本家のほう・笑)の綾辻さんの「今月の一言」について。
「本格」はイデア(プラトン的な意味で)だと思う。平たく言えば理想。それぞれに理想的な本格を持っている。僕なんかは確固たる本格のイデアを持っていて、他人の本格観にまったく左右されない。これは要するに、僕が本格を書こうとしているからじゃないかなと思う。書いてみると、やっぱりいろいろなことがわかる。批評と実践は違ったものだけれど、批評的な見地からの実践、実践的な見地からの批評、もあるから。書いてみないとわからない部分もたくさんあるんじゃないかな。……話がそれた。
ウィリアム・ブルテンの短編集を編んでほしい。頼む。
編まれるとしたらどんなタイトルになるか。『ウィリアム・ブルテンを読んだ男』? 論理的におかしいが、これっきゃないでしょ。
「クリスチアナ・ブランドを読んだ男」。
これとこれはどういうつながりがあるのだろう?
タイトルだけ同じということかな? 「訳者」がH・Tだからきっと同じ作品だ。
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July 03, 2005
「ネットに匿名性は不可欠」
僕も実名を公開しようとは思わない。公開してまずいことはないけど、積極的にそうする理由はないので。
けれど学校などでネットマナーを教えるというのはいいことかもしれない。
現在のネットでは一部のマナーが守られていない気がするから。特に某巨大掲示板などはいつも罵詈雑言の嵐でマナーも何もあったものじゃない。場の雰囲気とかも影響するのだろうけれど、やっぱり匿名性がその大きな理由だと思う。結局何を言ったって言い逃げできるんだから。まあ、どんなところでも、ゴミのような人間はいるけれど。
ハンドルがあるだけでもずいぶん違ってくる。僕はジュナ丸(倉本光)を、他のサイトに顔を出す場合にも、ずっと使っていきたいと思う。(あまり他のサイトには書き込んだりしていませんが)
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July 01, 2005
プレ・競作の作品をついさっき、投稿した。
正直、自信がない。あんまり良くなかったかも。
あ~あ。才能ないなあ。欝気味。
電脳ミステリ作家倶楽部はこちら。第三回リレー小説のプレ・競作という企画に参加しました。
個人的に、いちばん興味があるのは、どの程度解決がかぶるかということ。同じ問題編に対して、解決編(解決編とは限らないけれど)を書くのだから、かぶってもおかしくない。ぜんぶ同じにはならないだろうけれど、ひとつひとつの謎に対しては似たような解決が出てくるかも。
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June 26, 2005
雨キタ雨キタ!
昨日一日、作品を書き続けるつもりだったんですが、うまくいかないものです。
図書館で資料を探しました。
三国 隆三
青弓社 (1995.3)
通常1~3週間以内に発送します。
登場人物が失踪していくのでまずこれ。失踪の分類が役に立ちました。
ネタバレが多いので、必要な部分だけかじり読みしました。
あとこれで、首切りの理由を探そうかな、と。
今日行く図書館で借りるつもりです。
いまはチェスタトンの『詩人と狂人達』を読んでいます。
佐々木俊介さんのページを発見。某掲示板経由で。
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June 23, 2005
ようやくプレ競作に出すものの目処がついた。急いで書かなければ。やばい。
今回はロジックなしです。辻褄あわせに終始します。
政宗ラジオを聴いた。
HMCの機関誌に作品を出す余裕は無くなった。
6月31日までに競作を出さなきゃいけないし、そのあとは久遠さんへのお返し作品を書く。
きっと間に合わないから、HMCのほうは断念。
うわっ。6月31日なんて無かった。さらにやばい。
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June 21, 2005
誤解のない人間関係などないのだから、…………。
孤独はさだめ。
宿題。
一、耐えること。
一、敵を憎まないこと。
一、創造すること。
一、死なないこと。
一、まっすぐ進むこと。
一、恐れないこと。
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プレ競作の締め切りが迫ってきた。あせる気持ちばかりで何も頭に浮かばない。ここの更新もできなかった。
書くことがむなしくてしかたがない。
プリントアウトしたものを何度も読み返し、そのたびに自分の誤解に気づく。誤解に基づく修正不能な自分のミスにも。
……とこんなことを書いている場合ではない。続きを書こう。下手に書けばいいんだ。
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June 16, 2005
リアリティという言葉を使うときに注意しなければならないのは、現実が時代によって変遷していくことだ。
僕は論理というものをそれほど重視していない。ミステリにおけるロジックは好きだが。
論理は手段であるべきで、目的であるべきではない。
論理の綱渡り作業は詭弁的である。それは時として大きな誤りに導く。だから、僕は僕なりの「常識」や「信念」で、構造ではなく中身で物事を考えていると思う。その際には僕はまったく「クイーン的」ではないわけだ。
しかし現代に生きる人間として、僕の信念は信念を持たないことであり、そのつど判断することでもある。
「常識」や「価値」が揺らいだ現代に生きるためには、人は演繹的になってしまう。武器は論理と、はっきりした<手がかり>だ。それはいくらか古典的な僕には好ましいものとは思えないが、現代人の多くがそうせざるを得ない状況にあるのは事実である。悲惨なまでに「クイーン的」な有様だ。
そして「常識」で物事をはかる人間にとっては、彼らが「歪んだ」人間として見られることもあるだろう。
僕には麻耶作品に見られる歪み(登場人物の歪みや真相の歪み)を、アンリアルなものだとは決して思わない。筋は通っているが、歪んでいる。論理から常識が欠落している。それが現代的ということではないだろうか?
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June 15, 2005
普遍抽象しないで物事を語るのは難しい。もともと言葉が普遍的なものだからだ。
ある概念を導入して物事を見るということは、ある観点から物事を照射することだ。そのとき物事は「普通に見た」ときよりも違った陰影を見せる。つまり普遍化抽象化というのは、ある観点を据えて、そこから物事を見ることだ。それは、物事の多様性を浮かび上がらせ、物の見方を豊かにする。それは気づかなかった細部を明らかにする。
大事なことは、こうしたことは遊戯であり、と同時に研究であるということだ。なぜ考えるか。面白いから考えるのだ。
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June 11, 2005
電ミスの「プレ・競作」に出すものを真剣に考え始める。……いや、いままでもある程度真剣だったけれど、本気でやりだしたということです。(電ミスでは倉本光と名乗っています)
前回までのをプリントアウトし、赤ペンでチェックを入れる。行間にいろいろ書き込む。ペンションの見取り図を描く。
リレーだから、前の人のぶんを訂正するわけには行かない。それこそ一字一句、注意深く記述を見ていかなければいけない。
難しい。しかしとても楽しい。
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June 09, 2005
を観た。
ナゾから始まる物語がミステリではなくファンタジーになってしまったのは少し残念。
これが高校生相手だったら、日常の謎に対しても、現実的な答えを見出そうとするかもしれない。小学生だから、自然にファンタジーに繋がるのだと思う。(高校生でも、ファンタジーを作れ、と言われれば、そうするだろうけど)
逆に言えば、小学生では面白い「推理」が出てくるのは難しいかもしれない。
いずれにせよ、日常にもナゾがあるのだなあ、と再認識した。日常に謎を見つけ、そこから推理するなり空想するなりするのは楽しいことだと思う。気持ちに余裕がないとだめだけどね。
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June 08, 2005
電ミスのプレ・競作に参加することになった。だいたいどんな結末にするかは決まっているのだけれど、まだ未解決の部分があるので、無い知恵を絞ってがんばる。いま悩んでいるのは首切りの理由。
リレーのミステリってあまり読んだことがないなあ、と気づき、積読本からリレーミステリを探し、読んでみる。やはりいちばん苦しくてやりがいのあるのはアンカーだと思った。
刑事コロンボ「美食の報酬」を観た。
もう「コロンボ」にもいい加減飽きてきた。
今回の犯人は料理評論家。なかなか強烈なキャラクターである。
冒頭から、魅力的な謎に惹き込まれる。
(ネタバレ)コルク抜き内臓のカートリッジが問題になるのだが、ワインなど一度しか飲んだことがない僕は、「コルク抜きのカートリッジっていったい何?」と混乱した。モヤモヤしたまま最後まで見たが、ネットで調べてみると、カートリッジの中の空気をビンの中に注入することでコルクを抜けやすくするコルク抜きがあるらしい。(ここまで)
トリックは予想が付くものの、シンプルでよい出来だと思う。
面白いのだが、すり替えのチャンスがよくわからなかった。
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June 03, 2005
電ミスのリレー小説の結末を考えよう。整合性のある解決を書けそうだったらプレ・競作に参加する。
問題編はありえないくらい難しい。
解くべき疑問点を列挙してみる(いちおう伏せ字)。
紫のブーツはなぜあったのか。
木の幹に描かれていた奇妙な絵は何なのか。
白川はどこへ行ったのか。
美里は自室で何を見つけたか。
美里が見たという赤いブーツは何なのか。
なぜペンションのオーナーは首を切断されたか。なぜ死体を外に運んだか。
オーナーを殺したのは誰か。
美里が消えたのは?
曽我部裕子はどこへ。
密室だった理由と密室にした方法。
裕子はなぜ死体の身元を教えなかったか。
パソコンのデータにあった絵は何か? 首と胴体がずれていた?
和泉兄妹はどこへ消えたか。
……だめだ。難しすぎる。僕にはできないっ。
もう少し考えてみます。
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May 28, 2005
誰も僕のことを知りたくないだろうし僕も知らせたくないが、勘違いされるのは嫌なのでいちおう僕がどんな人間か紹介しておく。
僕はミステリをユーモラスに書いているが、あれは一種のアイロニーなのだ。僕は実生活では人とまったく喋れず洒落のひとつも言えない人間である。青田に理想を投影しているというのはそういう意味だ。彼には陰鬱な部分がない。道化的な人間で、本質的に明るい。彼はある意味僕と正反対の人間だ。
ミステリは軽くあるべきだとはもちろん言わない。しかし僕は軽いミステリが好きだ。というより、ミステリを書くときくらいは明るくなりたいのだ。
僕には友人や恋人はいない。しかしそのことについてルサンチマンを持っていない。自分の能力不足が原因とわかっている場合には怨嗟を抱きようがない。
僕はそういうわけで普通の生活を送るのにもずいぶん疲れるし悩むのだ。高校時代なんか一日終わるごとに大きな心労で心がつぶされるのではないかと思った。
いまは引きこもり中なので、そんなにつらくはないが、今日からある用事で出て行かねばならず、不安で不安でしょうがない。
しかし僕は最近、自分はやっぱり一種の道化だなと思う。僕の人生は喜劇なのだろうと感じる。
僕のような陰鬱な人間が自分の悲しみを喜劇と感じることができるのだから、他の人もそんなふうに見れないことはないはずだ。だからそう思えばなんら辛くはないですよ。
下の知恵の輪はまだ解けないです。
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May 27, 2005
今これをやっています。知的立体パズルとかいう名前がついていますが要するに知恵の輪ですね。

←こんなのです。
あと少しで解けそう……だけど解けない。
マジックの道具が隣に売ってあってそれも欲しかったけど高かったのでやめました。代わりに図書館でマジックの本を借りました。
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May 25, 2005
遠まわしに人を批判する奴なんて最低だよ。
匿名で正体を現さずに、婉曲に批判するなんてゲスのやることだ。弱虫だ。
きちんと僕を批判するなら前に出てこい。弱虫だからできないんだろう。
それから根も葉もないでたらめな讒謗はやめろ。
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May 24, 2005
挫折しました。
やっぱりダイイングメッセージものはうそ臭いですね。たんに僕が下手なだけですが。
いちおうどんな解決を目指していたかを書いたので、もし読まれていた人があったら見てください。解き方は作中作の犯人当てゲームと一緒で、「どうして被害者は犯人が誰かわかったか?」という点に着目すればよいです。
まったく続きを書ける気がしなかったので終わりにしました。読んでくれた方いらっしゃったら本当に申し訳ないです。
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パラレルワールド。
パラレルワールドのことばかり考えていた時期があった。というより別の自分のことを想像してばかりいた。
僕は今でも人付き合いができないし、人とまったく会話できない。
僕は今では死にたいとは思わないが、いつか自分が唐突に絶望にとらわれて自殺しないか危ぶんでいる。
今日、本屋で「選択肢」のことを考えた。アドベンチャーゲームは選択肢で世界が分岐する。しかしもし「世界が分岐する」としたら、それは自分の行動だけがきっかけではないはずだ。いろいろな偶然によっても(もちろん他人の行動によっても)分岐するだろう。
選択肢AとBがあって、性格的にAしか決定できないとする。その場合は、Bの選択肢をたどる世界はないも同然なわけだ。
それとも過去が現在を決め、現在が未来を決めていくのだろうか。だとすると世界は分岐せずに一本道だ。
僕はいくつかの重要な分岐点で間違ったほうばかり選んできた気がする。
非常におかしなことだが、ずいぶん前から暖めているミステリを書いてしまわないことには、どうしても死ぬわけにはいかないという思いがある。つまらないものなのに。
きっと一本道なのだろう。なにも変わらないのだ。
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みーちゃんうざい。さっさと書評書くのやめればいいのに。書きたいんだったらホームページを持て。そこで書け。いいかげん著者をなめた書評を書くな。人を馬鹿にしているのはどっちだ。
僕は心が腐った人間が嫌いだ。
人を犯罪者呼ばわりする人間はゴミだ。
成長成長というが自分はbk1に書評を投稿してくさすだけ、しかも歪んだ目で見ているからちっともその本の書評にはなっていない。自己顕示欲ばかりで、ホームページを持とうともしない。そして本にかこつけて人を批判する。こんな人非人はこれまで見たこともない。
みーちゃんは一冊の本と誠実に向き合うということがない。みーちゃんの書評を見るといかにいい加減に読んでいるかということがわかる。
自分の意見を入れるな。誰がみーちゃん程度の意見など聞きたがる。絶えず人を批判し、自らは何も生み出すことがない。傲岸不遜、軽薄、根性がねじけた性悪人間だ。
みーちゃんを徹底的に叩く小説を書こうかなあ。心が歪んだ悪魔として書く。
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May 19, 2005
PSのゲーム「YAKATA」を入手。550円。ブックオフにゲームコーナーがあるなんて知らなかった。
推理ゲームとRPGの相性はどうなのだろう。昔「RPGツクール」で推理ゲームを作ろうとしたことがある。
しかしツクールでも作るのには相当な努力が必要だということを知り、はやばやとあきらめた。
アドベンチャーでもいいので推理ゲーム作ってみたいなあ。
というわけで、新たにカテゴリー「ゲーム」を設置して、「YAKATA」プレイ日記を書こうと思う。……とりあえずクリアまで行けるといいな。最近飽きが早いのだけど。
ここの評価を見るとミステリとしてはあまり期待しないほうがいいのかもしれない。
ブックオフで入手した本。
ジョナサン・キャロル『死者の書』創元推理文庫
ヴァン・グーリック『中国迷宮殺人事件』講談社文庫
ビル・プロンジーニ『脅迫』新潮文庫
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May 17, 2005
最近面白いゲームがないなあ。テイルズ・オブ・レジェンディアは8月25日発売なのでそれを気長に待つことにする。
ゲームは映画や小説を超えられるか、ということが話題になっている。
「超えられる」という表現にどのような意味を持たせているかが重要だと思う。どのような評価軸で超えられるのか。もしそれが自由度という評価軸だとしたらゲームが有利だろう。それがストーリー性という評価軸だったら、どちらが勝つかわからないかもしれない。
プレイヤー・視聴者・読者にどの程度感動を与えるか、という評価軸で計れば、ゲームの特性や映画や小説の特性が問題になってくるだろう。たとえばゲームは実際にプレイヤーが参加することによってエンディングでは一般の映画や小説では得られない感動を受けることになるかもしれない。
比較するには同じところがなければ比較できない、ということを聞いたことがある。だからこの場合はある評価軸を持ち込んで比較するということになるかな(たとえばストーリーなど)。
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May 12, 2005
役に立ちそうなサイトを紹介します。
「Queens Adventures in Wonderland」
ネタバレ書評、ライツヴィルの詳細マップ、入手困難なパスティーシュの感想などマニアックな情報が盛りだくさん。エラリー・クイーンファンは必見だっ!
「ミステリの部屋」
ミステリの感想などがあります。特にオールタイムミステリベスト企画がいろいろ参考になります。
今日のところはこれだけ。
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May 10, 2005
「犯人当て小説におけるフェアプレイについて」
フェアプレイが謳われるようになったのはいつからなのか? ヴァン・ダインの二十則やノックスの十戒は明らかにフェアプレイを念頭において作られたものと思う。ノックスは十戒で、「これこれの文章を読まれたら、続けて真相が明かされるので、読者は一度本をとじて考えてみられるといい」みたいなことを書いていた。だから、ノックスは探偵小説を読むとき当てようとする人だったわけだ。ヴァン・ダインもきっとそうだった。エラリー・クイーンも、推理しながらミステリを読むことを好んだだろう。
ミステリのファンなら、誰でも、解決編に入る前に推理する、ということをやったことがあると思う。ちゃんと推理して「これが真相だ!間違いない!」と意気込んで続きを読んでみると、その推理を裏切るような無茶苦茶な真相だった……そういう場合に、読者はアンフェアだと怒る。その結果二十則や十戒ができたのだと思う。
クイーンを例にとって、ロジックが先か、フェアプレイが先かを問うことは、あまり意味がない。作品を結果として見て、クイーンの場合は、ロジックとフェアプレイが緊密に結びついている、と言えるだけだ。ロジックがないフェアプレイも十分にありうる。
僕個人の事を言わせてもらえば、フェアプレイにはあまり関心がない。むしろフェアプレイから派生してくる論理性のほうに興味がある。数学や論理学の世界ではないのだから、完璧なロジックはありえない。しかし論理は論理だ。推理の面白さというものはある。現実に論理が適用されることに驚きを感じる。僕は完璧なフェアプレイを実現しようとは思わない。僕の作品に出てくる探偵は証明しようとするのではなく、推理して真相を見つけ出そうとするだけだ(探偵クイーンでさえそうだと信じる)。僕は探偵が推理できるように手がかりを配置する。読者に対して手がかりを示す場合も同じ気持ちである。僕は素直に解かれることを期待して素直に手がかりを配置する。なるべく別解を排除するが、それはあくまで念のためである(なぜなら読者がそこまで考えるとは思わないし、別解を考慮しなくても真相を見つけ出すことはできる。また、読者は手がかりから推理するとは限らない。たとえば作者のぎこちなさから推理するかもしれない)。フェアプレイはこれで十分だと思う。
リンク先の論考には全面的に賛同する。僕がフェアプレイについて考えているのは上のようなことだ。
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May 09, 2005
「汝、悪党、他人に嘲罵を浴びせながらも、汝自らの発言であるという事実を認める率直な意志を欠く以上、中傷専業の汝の口を閉鎖せよ。」
~ショウペンハウエル『読書について』~
しょせん匿名でしか他人を批判できないやつは弱者だ。
2ちゃんねるやbk1やアマゾンの書評欄で、匿名であることをいいことに、言いたい放題の人間がいる。僕は彼ら匿名の弱者を見るに付け、ゴミ同然の輩というものは本当にいるのだと再認識する。力がないものは、せいぜい匿名で陰口をたたくくらいが関の山だ。それ以上のことはどうしたってできないからだ。
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May 07, 2005
本棚の本を数えてみました。2000冊くらいあるんじゃないかと思ったら、意外に少なく1000冊程度でした。床にもたくさん本があるので、1200冊前後だと思います。そのうち読んでいるのはごくわずかだったり(笑)。
僕は基本的には読んだ本は手元に置いておきたいタイプなので、図書館はあまり利用しません。古本屋で入手しにくい本を買うことはあっても蔵書を売ることはあまりないです。
僕の本棚はちゃんとカテゴライズされ、著者名順に並んでいます。日本の作家(ミステリ・文学その他ジャンルごちゃ混ぜ)、海外の作家(同じ)、思想書・学問書関連、雑学書や雑誌や辞書など、というふうに本棚を分けて使ってます。
新たに買ったものは床積みにされ、それがたまっていくと本棚に収納されるのです。本棚に収納する際は、著者名順に並べなければならないので、一苦労します。
最近古本探しにハマっているのでまた本が増えるでしょう(笑)。
古本屋に売ることはない、と書きましたが、以前一度大放出をしたことがあります。そのころは完全にミステリに興味をなくしていた時期だったので、ミステリ関連の本を見境なく売り払いました。レアな本もあったのですが。馬鹿だったです。
不幸中の幸いは未読だったクイーンの国名シリーズを売らなかったことです。これを売っていたら、僕はミステリに戻ってこなかったでしょう。ミステリの面白さにふたたび目覚めたのは、国名シリーズを読んだからなのですから。
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May 06, 2005
ブックオフに行ってきました(売りにいったのではありません)。
入手した本。
鮎川哲也編『殺人列車は走る』
笹沢左保『炎の虚像』
仁木悦子『二つの陰画』
山田正紀『女囮捜査官1 触覚』
連城三紀彦『戻り川心中』
ウィリアム・カッツ『恐怖の誕生パーティ』
エラリー・クイーン編『日本文芸推理12選&ONE』
エラリー・クイーン編『日本傑作推理12選 第2集』
エラリー・クイーン編『日本傑作推理12選 第3集』
それから、ブックオフじゃないところで入手した本。
ジュリアン・シモンズ『知られざる名探偵物語』
いつも行くところにいったのですが、僕のために棚を並べなおしたとしか思われないほど、探していた本がたくさんありました。『戻り川心中』と『恐怖の誕生パーティ』は特にうれしい。
エラリー・クイーン編のアンソロジーは続きものかと思ったら、『文芸推理』と『傑作推理』で違うものでした。帰宅してから気づきました。『日本傑作推理12選 第1集』を入手しなければなりませんね。
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April 25, 2005
『紅楼夢の殺人』とネタが被った……。いやーな予感がしたら的中。
このアイデアは考えていたのに……。
ショックすぎて正当に評価できない。
どうも最近よくかぶるな。麻耶雄嵩『螢』とか大山誠一郎『アルファベット・パズラーズ』とかこの『紅楼夢の殺人』とか……。
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ときどき変なジジジーという音が部屋のどこかから聞こえる。
本をひっくり返してどこから聞こえてくるのか突き止めようとするが、音の源はわからない。
盗聴器?
中町信の『天啓の殺意』を買いたい。
『模倣の殺意』が先ごろ出て、読んでみたら面白かったので。
『天啓の殺意』は『散歩する死者』の、『模倣の殺意』は『新人文学賞殺人事件』の改題らしい。
こういう復刊は大歓迎。というか講談社ー! 連城三紀彦の『戻り川心中』を復刊しろー!
もうすぐ芦辺拓『紅楼夢の殺人』を読み終わる。
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April 19, 2005
ようやくbk1の検索の不具合が治った模様。
書評ポータルに新着書評一覧も復活。
書評者のみーちゃんは大っ嫌いだが、僕はbk1を支持し続けます。アマゾンも7アンドYも応援します。
またちゃんとした書評を書けたらbk1に投稿しよう。
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April 05, 2005
おお! 何の気の迷いかこんなものをしてしまった!
総合評価
恋愛レベル
「繁殖ゴキブリ級」 (18段階中 18位)
恋愛タイプ 「あきらめ型」
・恋愛タイプについて
世の中の不公平さや自分をわかってもらえないという不満がありつつも、もはや爆発する元気もないという年齢まできた「あきらめ型」に分類されました。卑屈にならずに思春期のような感情を思い出しましょう、などと言ってもジュナ丸さんには無駄だと思われます…。恋愛はあまり期待せぬよう…
・総評
全体としては、最悪の成績でした。完全に赤点です。ジュナ丸さんは、女性がどうこうという前に、まず真っ当に生きることから考える必要があるかもしれません。恋愛はその次の段階と言えるでしょう。 また、「こころ」が最高値を示したものの、それもごく並かそれ以下の成績であり、まだまだ磨く余地があります。向上心すらもあまりないように見受けられ、未来にも暗いものが感じられます。まずは意識改革が必要でしょう。
項目別評価
項目 コメント
恋愛プロセス
(評価 1) 恋愛プロセスは下手です。相手の意思にまかせっきりにしていたり、混乱のまま話が進んだりしそうです。詳細を見ても、不器用さが目立ちます。アプローチも下手で女性の気持ちを掴むワザは心得ていません。また付き合った後の維持も下手で、別れ方も下手です。自分勝手で相手の気持ちをよく把握できてないと思われます。要注意。
振る舞い
(評価 1) 行動や雰囲気についてはあまり良いとは言えません。話すことや態度を多少見直す必要があります。詳細を見ても、出すオーラのなさ、雰囲気の悪さが目立ちます。性格は全く悪くないようなのですが、表にそれが出ていません。恋愛となれば「いい人」だけではモテずプラスアルファを必要とするので、自分を磨くためにも多くの人と接する機会を設けたいところです。女性への対応もいまいち。
向上心
(評価 2) 向上心についてはほとんどありません。今が良いにせよ悪いにせよ、その姿勢は女性からはがっかりされそうです。肉体面やファッションで気を抜きすぎではありませんか?女性にこびを売る必要はありませんが、自分に甘い人は当然同じような人からしか好かれず、それは望ましくないはずです。何か夢があって頑張る姿は素敵で良いのですが、それを理由に他の部分で努力できないというのはもったいない気がします。
考える力
(評価 1) 考える力が欠けています。あまり頭で考えないので、何度付き合っても同じ失敗を繰り返す可能性があります。いつのまにか相手を凄く嫌いになって別れることが多くないですか?彼女ができても、何が何だかわからないまま腹が立ち、何が何だかわからないままお互いの主張を繰り返し、いつのまにか嫌悪感が残るでしょう。これでは学習しない「獣」同然です。じっくり考え、思いやり、理解することから始めましょう。
こころ
(評価 3) 「こころ」については普通の評価です。まず感受性が強く、感情を強く持つために、人に優しくなれるタイプと言えるでしょう。相手次第で大変な幸せを得られる素質があります。また自分の気持ちも表現でき、心が共鳴し合う素敵な関係を築くことができます。ただし一歩間違えて少しでもズルいタイプの人を彼女にしてしまうと、たちまちジュナ丸さんは翻弄され疲れ果てることでしょう。要注意です。
オプション
(評価 2) 「オプション」は露骨な部門ですが、ここにこだわる女性が多いことを考えれば、この成績は厳しいものといえます。各項目の評価すれば、どれもこれもあまり成績が良くありませんでした。その他特典はいいとして、経済力についてはある程度年齢が上になれば男性に露骨に求められる項目ですので、なんとかしたいものです。ルックスはジュナ丸さんの意思が大きく左右するものです。中身から醸し出すかっこよさがほしいですね。
そのほかの語りたいポイント
・どことなくどよーんと湿ったオーラがジュナ丸さんから漂っています
・難しい話をする女性は苦手ですか?少し難しい話になると聞いてないタイプです
・ジュナ丸さんは、彼女ができても早いうちに飽きるタイプです
・まだまだ精神的にヒヨッコで、女性関係を論じるには早いかもしれません
・ジュナ丸さんには年下の彼女がお似合いです
・出会ってから理解が深まるまでがジュナ丸さんの最大の難関です。恋愛初期はとっても下手です
・23歳のわりにはとても子供っぽい考え方をしています
……なるほど。
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April 04, 2005
Blog Petとやらを住ませてみました。
こねこ、こうさぎ、こいぬ、こぱんだ、こねずみから選ぶのですが、こいぬにしました。
近くで見るとけっこうへんですが、遠目では可愛いですね。とくに去っていくときの後姿が良いですね~。
このブログから言葉を覚えていくみたいです。ときどき川柳を読むことがありますのでクリックしまくってください。
いまいちブログの使い方がよくわからないが……。
とりあえずここ秘密基地はあくまで秘密基地。本家はあっちである。ここはおまけのようなものだ。
メインは創作小説。
創作小説だけは、ちゃんとやるつもりだ。
久々にbk1に書評を投稿してみた。『スペイン岬の謎』だ。
アップされるのは、明日か明後日になると思う。
これで「bk1で国名シリーズ全作に書評をつける」という僕のひそかな野望は達成された。……と思いきや、『アメリカ銃の謎』の書評を書いていなかったか。忘れていた。めんどくさいな。
無事にこちらに引っ越しできたが、少し計算ミスがあった。
伏字が使えない!
背景がこれじゃ、文字色を変えてもだめだし。うーむ。ネタバレで語れないのか……。
「続きを読む」ってどうやるんだろう?
おお。上のように本の画像が出てくると、いかにもブログという感じがする。
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