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March 27, 2006

 お久しぶりです。まだ生きています。

 trivial氏の『扉は閉ざされたまま』評~眼鏡は、割っちゃえ!! 踏んづけちゃえ!!~を読む。
 いろいろ考えるところがあったから久々に長文を書く。
 フェアプレイについて。
 ミステリにおけるフェアプレイというものは、読者と作者の間のものだと僕は考えている。探偵と犯人の間のものではない。作者が謎を提示して、読者に解いてもらう。そのときに手がかりや伏線を十分に出しておくことをフェアプレイと呼ぶ。
 だから一般的には、倒叙ものにおいては「フェアプレイ」や「(フェアプレイに対する)アンフェア」という表現は使えない・・・と考えられる。なぜなら読者が解くべき謎がないから。(地の文に嘘がある場合などについてはアンフェアという表現が使える。)
 だがドラマ「古畑任三郎」では「視聴者への挑戦」があった。どういうことか? 「謎がない」倒叙ものにも解くべき謎が実はある。それは「謎がいかに解かれるか」ということだ。古畑が言う「どこで犯人はミスをしたのでしょうか?」とは「いかにして私は謎を解いたのでしょうか?」ということだ。
 言ってみれば、犯人当てミステリでは読者は謎から答えを探そうとするが、倒叙ものミステリでは読者は謎と答えを結ぶ「手がかり」と「ロジック」を探そうとする。すなわち倒叙ものは「手がかり(伏線)とロジックのミステリ」と言ってよいと思う。偏った見方かもしれないが僕はそう認識している。
 しかし最近では、謎がない倒叙ものはかえって珍しい。『容疑者Xの献身』ではアリバイが謎だったし、『扉』では動機が謎だった。一部分だけ謎を残すのはよくある手だ。謎がある場合は、もちろんその謎を読者が解くのに十分な手がかり(伏線)をあらかじめ提示しておくことがフェアプレイだといえる。
 だから、『扉は閉ざされたまま』をアンフェアともし批評するならば、それは二つの観点からなされなければならない。謎が二つあるからだ。まず第一に倒叙ものとしての謎「いかにして碓氷優佳が謎を解くか読者は推理できるか?」、第二に隠された謎「動機を読者は推理できるか?」。
 僕はどちらの謎についても読者は推理できないと思う。後者については常識では考えられないことだし、後者を推理しなければ前者も解けなくなっている。だからアンフェアでないかどうかといえば、アンフェアだと批評できる。ただ「そうできる」というにすぎない。
 ミステリを批評するのにフェアかアンフェアかがそれほど重要だとは僕は考えない。僕がこの作品を批判するのはあくまで形式的なことではなく内面的なことで、理論よりも感情だ。そのことが理論を伴って表れているに過ぎない。

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