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November 10, 2005

僕は自殺した人間を軽蔑することはできない。彼らの苦悩がどれほどのものであったか、安易に想像してはならないから。
だが自殺という行為は、軽蔑すべきものだ。

「誤植と自殺」
揚げ足とりめくのはイヤだけど、思ったことを書いておく。

「死んだときの私」という想像的な消失点から現在を回顧的に見る力が、ほかならぬこの現実にリアリティを与えている。 それは私が「推理小説」を読んでいるときと同じメカニズムである。

ここで唐突に「推理小説」が出てくるのがクサイなとまず思った。なぜ「小説」ではないのか。ミステリ読みとしてはこの辺にトリックが潜んでいそうだと思うのである。レトリックのトリックが。
僕の意見としては、なにも終わりから見る必要はないと思うのだ。始まりからずっと物語は続いているのであり、なにも死を見なくても、一日先、一ヶ月先、一年先を想像しているほうが、よっぽどリアリティがある現実を送れるのではないか。それとも最も実際的な人ほど、「自分の死」まで想像しているものだろうか。むしろそういう人は夢見心地であると思う。


物語の中ではすべての出来事の意味は文脈依存的であるから、物語が読み終えられて書物を置くまでは、その出来事の意味は未決のままである。

これは後半がよくわからない。物語が終わったとしても、出来事の意味が文脈依存的であるのは変わらない気がする。もし終わったことによって意味をとろうとするのなら、それもひとつの文脈によって理解していることになる、いわば額縁によって。しかし額縁はある部分を切り取っただけだから、本当はいろんな文脈で読みうるのだ。
だから、

日々我が身に起きている出来事の「ほんとうの意味」は「私という物語」を読み終えるまでは私は知ることができない。

のは間違いであり、死んだあとで意味をとることが可能だとしても、それは文脈に依存する。正しい意味などない。
僕らは死まで想像しなくても、日々の出来事にいろんな意味を探している。それは断片的な物語だとしても、充分にリアルだ。そして感動的だ。窓ガラスを見ていたという女性だって、告白する男性だって、まさか自分の死を想像していたわけではないだろう。

「死んだ私」という想像的な消失点は想像力の強い人間ほど「遠く」に設定することができる。

これは根拠を示して欲しいと感じた。
続く

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